技能

仕事とか職業などが、それが特に社会的な地位を占める場合、それは希少価値ということだろう。知識・技術・体力・才能、一般的には、なかなか普通には手に入れることが難しい、それが不可能、まず不可能、そうとまでは言わなくても、その能力はなかなか簡単には得られない場合だと思う。
それにたいして、いわゆる「だれにでもできる」、じっさいには本当に「だれでもできる」かどうかは解らないのだが、まあ一般的に、特別な能力や才能、技術や知識、などがなくても、ある程度のことはできるだろうと思われていること、仕事、といったことは、それが決して軽んぜられているわけではなくても、また軽んぜられていいわけでもないのだが、ーーどうしても、そこに特別感が少なくなることは否定できない。
それらを考えてみるとーーまず、たしかに特別な能力や努力を必要とするものは、ある。そしてそれに対して、稀少性を感じ、ある程度の敬意を受け、それなりの社会的地位に就くーーここまでは、それが当然で、それでいいと思う。
問題は、だからといって、それで、では特別かどうかはともかく、ふつうに働いている人々が、まるで「劣っている」かのように見られてしまう、あるいは見てしまう、そこだと思う。
平等とは何か?それは、その人の価値を無条件で「絶対的」に「同じ」だと見ることだ。
次に社会的なことで言えば、昔から「職業に貴賎なし」というが、なぜ「貴賎」がないのだろうか?それは、能力や特殊な才能などの差は、たしかにある。たしかにそれはあるが、そして、それなりの社会的地位や収入の違いが生まれることも、ある程度は仕方ないとする。しかしそれは、職業の必要性についての差があるわけではない、ということだ。必要性では「等価」である。その職業の必要性は同じであるということと、その職業を為すための能力には差があるということ。この違いを理解することが大切なのだと思う。