文明は堕落をめざす

文明=人類だとしたら、堕落は当然で「堕落」こそ人間の本義ではないかと思う。文明の難しいところや面倒なところは、「怠惰」や「快楽」「享楽」あるいは「だらしなさ」といったことを否定的に感じてしまう、そういう生理的か社会的かそれはともかく、どうも結果的に「楽なこと」「楽しいこと」「安直なこと」「いいかげん」なこと、等々が基本的には拒否されるか拒否されるまででなくても、少なくとも「あまり好ましくない」という状態・態度・性格・行動・傾向…そのように思われることが多いと思う。
あるいは性格・道徳といった視点からは、「卑怯」「裏切り」「無責任」「打算的」「どっちつかず」「御都合主義」「言い訳」…等々が「軽蔑の理由や対象」になりやすい、ということ。ーーようは、なぜか個別の人間にしても、種という集団としてみた場合の人類にしても、利己的なことや怠慢なこと卑怯な振る舞い等々に対して、過剰ともいうほどに「悪いこと」のように見られてきた、ということだ。
ーーこれらの一般に「悪いもの」少なくとも「あまり良くは思われないこと」、それを仮に「A型」の価値観とする。
その反対が、たとえば「誠実」「勇気」「努力」「勤勉」「正義」「自立心」等々が基本的には「良いこと」「肯定されるべきもの」とされている。これを仮に、「B型」の価値や道徳の見方とする。
だがここで考えるべくは、昔からこのB型の、つまり道徳的に是(ぜ)とされるようなことは普通はじっさいには通用しないことが多い。しかし子供や若者、学校教育、あるいは宗教・倫理、そしてかなり多くの物語ーー文学、漫画、映画やテレビなどの映像作品、あるいは演劇など、物語とかドラマとかフィクションと呼ばれる世界では、いわゆる「正しいこと」が「よいこと」であり、「良いこと」とは「善いこと」のことなのだ。ーーつまり、正しいことをすべて本気でやることは大変だから、いや、むしろそれでは無理や不自然が目立ち結果として「かえって悪い結果が出てしまう」ということが多いのだと思う。そして現実の世の中はどうなるかといえば、いわゆる「不正の支配する社会」 となってしまう。だから社会も大半の人々も、前提としては「正しさ」を求めるB型の道徳的な理想をよしとする。そのB型の理想をタテマエとして、現実の世の中の多くはA型が支配的であるという、この二重の仕組みが絡み合いながら、バランスを取ろうとしている。これが社会というものの実態なのだと思う。
しかし、これからの世界は、名実ともに含めてA型の社会になっていくと思っている。つまり、「ずるさ」や「だらしなさ」が本当に当然として認知されていく社会だ。
SFなどでは機械任せの世の中に否定的な作品が多いかもしれない。だが、仕事やさまざまな業務などがコンピューターやロボットなどがやってくれてそれで特に問題はないと思う。はたらかず、怠け者で、それでいいのではないか。苦労は少ないにこしたことはないし、楽なことがいいに決まっている。性格や生き方にしても、自己を中心にものごとを考えることは当然であり、したがって「ずるさ」とか「卑怯」とか「裏切り」とか「ものごとを自分に都合よく解釈する」のも、きわめて当たり前だといえる。それらはいずれもきわめて「人間的」なことだからだ。
結論めいたことを記そうと思う。
ーー人間は、堕落するために生まれる。人類は、その誕生の最初から、堕落するために文明を生んだ。
文明とは、そのひとつは「苦痛や恐怖をなくす」ために生まれた。病気や災害や、暑さ寒さや雨風、飢えや渇き、そのほかにも心や集団などとの孤独や「いじめ迫害」などーー恐怖や痛みや苦しみなどから免れたいと望むことから文明は生まれた。もうひとつは、これも生物としての基本である「生存を保つ」ためのことである。前記の「苦痛や恐怖から免れたい」というのと似ているが、前者が基本が感情のような精神面が動機の中心にあるのに比べて後者の理由は、主としてヒトという「種」としての人類が存続するためのことだといえる。猛獣など外敵から身を守る。食糧の生産や貯蔵を工夫する。医療や衛生を発達させる。人類の種そのものの生存のためである。
そして、前記の二つのことを前提にした上で、文明の派生し発達した理由がさらにあとひとつはある。「楽(らく)」と「便利さ」「利便性」を求めて、である。道具とさらに機械化、その機械化もいわゆる動力を用いての発達だ。その動力も、電気というものを使い、それは広い意味での「電力」というかたちに落ち着いた。レーニンが「社会主義とは電化である」ということを、言ったとか言わなかったとかは、自分はよくは知らない。その言葉が歴史的あるいは学問的に正確だったのかも知らない。ただ、わりと有名な言葉であるし、それが伝説的な「ひとり歩き」をしたという現象のあることは知っている。はたして「電化」が「社会主義」か否かはともかくとしてーー承知のように電化は資本主義の経済や社会でも広がり機能しているーーが、とにかく、機械化と電化が文明のきわめて大きな役割を果たしているということは否定できない事実だろう。
そしてその機械化と電化は、現在は、それが直接的にか間接的にかは問わずに、それこそ「現代文明」の要を為している。そこを土台として、それの技術的・科学的あるいは知識的に、その延長上に、現に僕がいまこの文章を書いているスマホという道具も、その元になっているコンピューターを基本とした技術、パソコンのネットワーク社会というシステム…それらのものが存在し機能している。
衣食住をはじめとした生きるための生活とその生活手段、医療や保健・衛生といった健康面、さまざまな交通手段など移動のための利便性、もちろん今このスマホを使っているような通信や交信手段、それらを含めてのコミュニケーションの広がり。福祉や保育・教育も、さまざまな分野でのオートメ化は日常の生活や産業を大きく支えている。生存そのものの保持はもとより、家事の軽減、仕事・職業・職場などでの創意や工夫(くふう)化…趣味、娯楽やレジャーなど余暇活動までーーそれらの多様な分野での役割は、基本的には、その多くの理由は「利便性」と作業などの行為を「楽(らく)」にするために生まれ、発展してきたものであろう。
そして…
仮に、というよりそれは既に現実にそうであったし、これからも進行形でますますそうなっていくだろうが…ふつうにいって当然、一般的な傾向としては、人々は「思考」ということから離れるようになるだろう。そしてますます「めんどくさい」ことをイヤがり、できるかぎり多くのことをオートメ化や、コンピューターを利用してそれらに頼り依存していく。ーーそれは当然であろうし、文明の発生と発展の理由としては、むしろ「しぜん」の結果だと思う。もしそれを、思考力や判断能力の低下、身体機能と能力の変化、記憶力の低下や暗記の不要性、創作や芸術または芸能などの世界でのコンピューター技術たとえばCGの発達や知識・情報の集約化とその利用等それらがさらに活用されていくこと…それらは当然のことだ。できれば、できるだけのことは「機械まかせ」「人任せ」「めんどうなことは考えたくない」…それが当たり前だと思う。それをもし「怠惰」または「依存性」「依存体質」あるいは「無責任」とよぶなら、そして「主体性の喪失」とか「自我の曖昧化」とかいうとすれば、それは当然で、それこそが理想化の姿、すくなくともその代表的な姿のひとつだといえるだろう。それが、なぜ悪いのだろうか?それでかまわないし、そのほうがいいではないか。それを「堕落」という否定的な感覚の言葉で表現をすることには違和感があるならば、堕落を積極的な、肯定的な意味あいとニュアンスになっていけばいいだけのことだ。言葉は生きものであるし、歴史的にみれば過去とは真逆の意味で使われるようになった言葉や表現は必ずしも珍しくないだろう。人間が堕落するために人類は文明を生んだとすれば、あるいは文明が人類を生んだのだとしたら、堕落は当然の結果であり、そしてそれは否定されることではなく、それどころか文明の本来の理由とその成果だといえる。
ーー堕落は文明の原点である。