共同社会と競走社会

テェンニエスの「ゲマインシャフトゲゼルシャフト」は「共同社会と機能社会」と訳されることが多いようだが、共同社会はいいとして、学問的にはともかく、現実的には「競走社会」というのが実感がある。
それはともかくーー共同社会が家族的とか地域的などの感覚だとして、競走社会は基本的に資本主義社会のことだと思えばいい。資本主義の他の社会と決定的に違うのは、それが「競走を優先する社会」だということだと思う。
競走があるから効率的で生産性が高くなり、より便利でサービスの行き届いた世の中になる。基本的にそうだと思う。ただそこで考えたほうがいいと思うのは、ーーたしかに競走によって、ライバルに勝つために頑張る、ということはある。だが、ライバルや競走とかいうことのみが、利便性やサービスなどの発達をうながし、発明・発見や効率化に貢献する、そのすべてなのだろうか?ということだ。
もちろん社会主義諸国が競走原理の不足から生産力が低下して、そのために必要品やサービスが極端に悪い社会になってしまったことは事実だろう。だがそこには、競走のことだけでなく、また社会主義独自の計画経済の無理や官僚制や自由民主主義のない抑圧社会であること、さらには多大な軍事費の負担などーーたんに競走の有る無しだけではない複数の原因があったと思う。自由と民主主義が基本的に確保されていて、軍事費を抑えめにし、福祉社会であれば、産業・経済や職業やサービスなどの各方面で、ことさら競走重視の社会でなくとも、充分なモノやサービスや情報などの行き届いた世の中が機能するのではないだろうか。
良いものを作る、より良いサービスを提供する、能力や効率を高めていく、安全で便利な社会を発達させていく…それらは思われているほど競走にこだわらなくとも成り立つように思う。
これからは機能分離だけでなく、ものごとによっては、そこに多少の非効率や生産性の成長などが弱くなったとしても、人々の仕事や活動が協力のもとに成り立つような職場・生産と家族や生活が目に見える感覚で結び付いた社会である。なによりもコミュニケーションと異文化との関わりを大切にする世の中である。そういう社会でなければこれからは世界の機能そのものが成立できなくなると思う。