愚物

愚物(ぐぶつ)とは人間のことで人類そのものだ。
愚物である理由はいくつかある。
愛されたいという欲求。
求められたい欲求。
自分が必要とされたいという欲求。
自分が役立っていると思いたい欲求。
良く評価をされたい欲求。
秀でていたい欲求。
勝ちたい欲求。
特別に優れた存在でありたい欲求。
ーーこれらに呑まれることは不幸だ。これらに逆らうことは不幸だ。これらを獲得しようとすることは不幸だ。これらをなくそうとすることは不幸だ。これらを無視しようとすることは不幸だ。これらに挑むことは不幸だ。これらを排除しようとすることは不幸だ。これらと共存しようとすることは不幸だ。これらを憎むことは不幸だ。これらを愛することは不幸だ。
人間は不幸と戯れないかぎり幸福にはなれない。
人類とは、愚物なのだから。

ゆがめる

ゆがめることからすべては始まった。始原だ。ゆがんだ、でなく、ゆがんでいたのだ。最初から。
だから悪魔などいない。悪魔を想像して「悪」が生まれるなら判るが、悪魔によって悪が生まれたわけではない。
宇宙などもじっさいには存在しない。それは誰でもが知っている。そこではなく、宇宙という言葉を使ったことが意味があるといえばいえる。存在するものに意味はない。意味を欲しがるだけだ。言葉こそ悪の権化で、言葉から人類は不幸を選んだ。この文章そのものが言葉でできている。それが何よりの証拠だ。人間は言葉を欲しがる生きものなのだ。限界があるくせに限度を知らない。そこから「愚か」という言葉ができた。だから悪はない。愚かがあるだけだ。愚かという言葉だけは、すべての言語のすべての語彙をふくめて真理といえる。愚かーーすべて。

個性は幻想

個性というものは無い。それは個性という観念を必要とする者が作り上げた幻想だ。人間は自分が生きやすいことを望むから、それの邪魔になるものは排除したくなるし、逆に自分に都合がいいことは肯定する。じつはそれだけのことなのだが、それだけだと格好がつかないし名目も乏しいので、それでそれで「もっともらしい」理由を考えて、それを「個性」と呼んでいるのだ。人間はみな同質だ。ただ欲求の反応の仕方が違っているだけに過ぎない。反応の違いは、個体が生まれるときの環境と生まれたあとの環境によって、いろいろだろう。どちらにしろ環境の違いだけなのだが、その多様性のことを個性といえばいえる。
だから個性といわれるものは消すことは不可能だ。不可能なのにそれをしようとすると無理が生じる。それが全体主義とか管理社会などといわれるものだ。素朴で本能的に生きる世の中なら、そんな無理をしたりはしない。
価値はいけない。価値などないが、求めるから価値が生まれる。本能だけで生きられたらいちばんいいのだと思うが。人間は本能をこえたものまで欲しがる傾向がある。ふつうそれを欲望とよぶが、これは価値を求めたがる。それは「対」人や「対」社会といった「対」環境に求めることからきている。これが破壊をもたらし世の中に災いをよぶ。もちろん自身をも不幸にしていく。
ようするに「良く思われたい」とか「ほめられたい」とかいう欲求が不幸をもたらす。評価を気にせずに生きられるようになること、そういう人が世の中で大半を占めるようになること。それが住みやすい社会だと思う。そこには個性はない。言い方をかえれば、個性は必要ないのだ。「没個性」などといったネガティブな言い方でなくて、あるいは「個性の抑圧」といった反発や対立のとらえ方でもなく、「個性」といわれるものが「とくに必要でない社会」、それが住みやすいというのだ。
本能に個性はいらない。

人類は生物ではない

人類は生物ではない。あえて言えば、妖怪だろう。
もともと生きものと言われるものは、生物と妖怪のことだ。最初の派生がどうであろうと、妖怪=人類は、他とは違う存在だったし、その後もずっと妖怪だ。だから生物とは交われないし、他の無生物といわれるものとも違う。絶対的に孤独なものだ。わかっていることは、人類だけが「愚かさ」を生んだということだ。全存在のなかで唯一、「愚か」という現象を生んだ。人類は、生まれたときから芸術家だからだ。
人間は矛盾を好む。人間は不幸を求める。もともとそういうふうにできている。だからそこをあまり特別視せずに不幸を透明な風のように感じたほうがいい。そうすれば、幸福にはなれないが、不幸を悪いことやつらいことに感じることはなくなる。
人間は個を嫌う。だから個人主義に立つ西欧の社会は、妖怪としての人間の道からは外れた方向性だといえる。個を壊すために流行があり集団は生まれた。動きとは何かといえば、多数派になるため、多数派の仲間に入るためだ。個人や個性というものを消すことを人は求める。それが本能であるからだ。全体主義とか管理社会とか呼ばれるものは正しい。みなが同じ感性、嗜好、同質の状態になれば争いはなくなる。差別も暴力もない。無個性化こそ宇宙の秩序に適合する道である。
「人間的」な感覚や思考や行動は、人類という種(しゅ)の保存からはあきらかに反している。しかし同時に人類は、かならず反逆者を生み出す。その理由は妖怪だからだ。
愛や自由や、正義などの観念や行動は、種の全体の保存に反している。人間的であることは、人類の敵であることを認めなければならない。
人間は不合理な存在である。
ゆえに人間的であることは、人類の在り方と矛盾する。ゆえに人間的であることは、人類の不利益になるということで、人類の性質に矛盾しない。

感情の悪

感情に善悪の区別はない。感情は悪でしかないからだ。キレイゴトは感情を美化することから生まれる。不思議なことに「悪」だからこそ、それを擁護しようとするところが人間にはある。人間はどうしても悪を認められないのだろう。だから人間は「悪」なのだ。
おそらく人類は生物のなかでは相当に異例で「いびつ」な存在だろう。人類は存在じたいが不幸だといえるし、だから人類に期待をすることじたいが本来は間違いだが、しかたがないだろう。だがら人類は愚かなのだ。
無駄な努力をするのが人間だ。
人間は愚行しかできない。それが人類のよいところなのだと思う。

少数者の流行化

人権の民主化とは、世の中の少数弱者の利益を社会的な価値として認めさせることである。つまり少数弱者の存在価値が認知されて市民権を得ること。そしてその少数弱者が生きやすい世の中になることを社会の多数派が肯定するようになること。それが人権の民主化である。
少数弱者がその権利を実現化させるためには、少数弱者が多数者から支持されなければならない。そのためには、少数弱者が人気を得て、少数弱者が世の中の流行になる必要がある。流行こそ民主主義の原動力である。少数派が「多数派」の支持を得ること、それが民主主義の世の中で弱者が人権を獲得する道である。

政治は生死を賭した娯楽

政治を語ることは社会をゲーム感覚でもてあそぶことだ。それは他人の生活と人生を、面白半分にいじくり楽しむことだ。民主主義とは、多数の人間が「きまじめ」なふりをしながら、ある者は露骨にエゴイズムをむき出しに、あるいはほかのある者は深刻に社会をよくしたいと思い込むことによって、またある者は気まぐれな感覚によって、ーー人々が権力の座標に向かって意識無意識を問わずゲームに参加する。
そしてそれらの趣味や嗜好が流行となり、それが拡大・長期化・定着していくと権力となる。
権力は、遊びと流行から生まれる。