承認欲求の疑問

承認欲求という言葉をよく聞くが、人は本当に、それほど認められたいものだろうか?常に周囲に人々がいて孤独から免れる状態にあれば、ことさら承認欲求は生まれない気がする。とくに迫害されたり排除されたりせず、信頼できる人々と生活や仕事や付き合いが出来ていれば、基本的にはそれ以上に「認められたい願望」といったことは生じないと思う。人間関係がうまくいかないときに、人は自分が特別に他者から必要とされたい、求められたい、という欲求が生まれるのだと思う。

世の中と幸せ

幸せになることは、世の中を肯定することだ。

世の中を肯定するというのは、多数派の意見にすべて従うという意味ではない。

自分の意思を明確に持ちながら、自分の中に世の中を取り入れていく。自分が世の中と共に歩んでいく。

自分の気持ちや意思や判断力を持ちながら、世の中と共に生きていることが嬉しいと感じられる…それが幸せな人生だと思う。

時代と個人

個人は時代によって制約もされるし、また可能性も拡大させる。

日本の高度成長期は、活気があった。もちろん問題も抱えていた。しかし基本的には、個人は、その道や方向に突き進んで行こうとするエネルギーを持つことが出来た。

高度成長期が終わり、比較的に安定化とバブルそして冷戦終了に渡り、人々は不安な中で、諦め、社会変革と、そこそこの安定と充溢を生きるようになった。

ネット社会をはじめ、情報の飛躍的な広がりと技術の発達によって、現代は「個人の個性をどのように活用していくか」という、個人が如何に社会を活用していくか、ということが問われる時代になった。

情報とコミュニケーションと人間関係の在り方が問われる時代となった。

争いをなくす

争いをなくすには、みんなが、怒りや不満、悲しみなどを溜め込まないことだ。そして、それらを自分だけで抱え込まないことだ。

不満やつらさを溜め込まない。苦しみを1人で抱え込まない。そうすれば、大抵の問題は解決するか、たとえ完全に解決はしなくても、相当に前向きな良い方向に道が開けることが多くなると思う。

1人ひとりの個人のもつ悩みや苦しみを、社会やみんなの問題として認識する世の中。そのための仕組みや方法やコミュニケーション、それらを考え努力していくことが何よりも大切だと思う。

人類という言葉

正直に言って「人類」という言葉、単語、表現にたいして、僕はよく理解ができていない。

「人」「ひと」「ヒト」そして「人間」…それらを外国語でどうこうと言うつもりもない。それも面倒くさい。

それはともかく「人類」という言い方をすると、とりあえず何か仰々しいというか、大げさというか、ようするに特別感が伴う気がしてしまう。少なくとも、まったくそうでないと言ったら嘘な気がする。

人類という場合は、やはり生物的な感覚が強いということだろうか。動物とか、哺乳類とか、類人猿とか、ホモ・サピエンスとか…あとなんだ…ホモ・ルーデンスか…

なんでそういう仕分けになるのだろう…生き物や自然界を、いろいろ分類したくなるのも「人類」だからなのだろうか?

人類・麺類と昔から言う…かもしれない。が…ともかく、人類というのは、自分自身のことを知りたいという願望が強い生き物なのだろう。もう1つは、自分自身を特別視したいという欲求が強い生き物でもあるのだろう。

ジェンダー」という言葉が流行っているが…流行っているとして、たぶん

性や性別のことを、生物的なことと文化的なことと、その両方から研究するのがジェンダー学なのだろう…

いずれにしても

生物と性と文化から「人類」というものを観ていくことが必要なのはたしかなようだ。

自信家は謙虚

承認欲求が充たされない。自信が持てない。常にコンプレックスにつきまとわれる…そういう人は例外なく、みな傲慢な人だ。

自信家の人とは、謙虚な人のことだ。少なくとも、自信の根拠や理由は謙虚さにあるということはたしかだ。

「自分なんて大した者ではない」ということを、謙遜とかではなくて、しぜんと本心で思っているのだ。だからダメで元々、うまくいけば喜びや充実感もひとしお大きい。

自信をつけたければ謙遜になることだ。

 

 

 

資本とは何か?

資本という単語は、不思議だし、ヘンなものだ。解ったような気がしている。本当は誰も判っていない。

経済の理論で、どんなに説明しても説明しきれることではない。どこかにごまかしが残るからだ。

ただ自分は、資本とは「欲望拡大のための浪費」のことだと思う。それを価値基準は貨幣で換算するのだと思う。

そういう資本を肯定する「主義」という単語がくっ付いて資本主義というのだから、しぜん無理や疲弊が繰り返されるのは当然であろう。

経済だけにとどまらず、文化も精神的なことも、人間関係・社会環境もすべて資本には飲み込まれる。

資本は必ず政治と軍事に関わり影響する。だが表面的には、たいていの場合には、それは一見、資本とは無関係なように現れる。資本は、人々や社会の無意識に侵蝕する。資本は人間の生み出したものであるにもかかわらず、人間の意識をこえて人間を支配する。

暴力と権力、これは資本をエネルギーとして拡大し暴発する。

破壊がおこなわれても、資本は生き残る。権力と暴発が資本を求めるからだ。

資本そのものの変容を可能にしないかぎり、戦争と支配の世の中は終わらない。