自民党を考える

自民党の政治・政府・政権の歴史のなかで、僕は生まれ、育った。それが良かったか、悪かったか?……正直に言って、僕には、わからない。僕には、政治を含めて、世の中のことを知らない。「知らない」という言い方や表現が適切ではないというならば、それを仮に「知っているという自信や確信が持てない」と、言い換えてもいい。ーーさて、それはそれでーーそれでも、直感的に感じる、きちんとした確証や知識や情報や経験は不足しているとしてもーーそれでも「感じる」、「ただ、感じるから感じる」ーー、それぐらいは言ってもいいだろう?そう思うだけだ。それを記す。
僕は自民党の政治を中心に、そこに存在する社会と、そこで生きる人々の中で、生きてきた。主体的に生きてきたとは言わない。基本的には、受動的に生きていたと思う。その善し悪しは解らないが、とにかく、とりあえずは、生きてきたし、いまも生きている。
自民党政治を「自民党を政治指導力として、その影響のもとに動いてきた社会(文化や人間関係や経済や国際関係などを含む)とそこに生きる人々の生活」という意味で、それを「自政社会」 と名づける。
自政社会は、国民が「受動的に生きる」社会である。それは国民が望む社会である。国民が望まないことは、政治として成り立たない。少なくとも、自由と民主主義の国では、国民が望まない政治はできない。いろいろな問題がありながらも、日本は、自由と民主主義の国だと思う。少なくとも、表現の自由や民主政が露骨に抑圧される、いわゆる「強権政治」の国ではない。少なくとも僕は、日本を強権政治の国、いわゆる「強権国家」だとは思わない。それで、自政社会が長期間に渡って継続しているということは、国民が「受動的」であることを望むからだと思う。それも「受動的」にだ。国民は、「受動的に生きる」ことを「受動的」に望んでいるのだ。
ナチスから逃れてアメリカに渡った1人の社会心理学者が、あるいは心理社会学者が、「ESCAPE OF FREEDOM」と呼んだ、その「積極的に自由を守り」かつ「自由を創造していく」ということからは、たしかに多数の日本人、日本国民は、それに近い感覚と態度であるかもしれない。しかし、だからといって、自由および民主主義というものを決して「どうでもいい」ものとも思わないし、まして「それが無いほうがいい」と思っているわけでもない。自由と民主主義は、良いものであり、それを必要だと思っている。ただし、それを能動的に為していくことに対しては「ためらい 」と不安を強く感じる。その理由は、それをするには、そういう生き方をするには、相当な、思考と判断と決意と勇気と信念が必要だ。ひとことで言えば責任が伴う。それは大変だし苦労が多いし、並大抵でない努力を必要とする。自分は、そこまでの気持ちにはなれない、あるいは、そこまでしてそれを為そうという気持ちまでは持つことができない。厳しい言い方をすれば、はっきり言って「責任を持ちたくない」ということだろう。言い方を変えれば、「自分は責任の担い手になることはイヤだが、誰か、ちゃんとした人に、その責任を担ってほしい」という要望だ。じつに都合のよい「いいとこ取り」の考えだ。徹底した「甘え」である。
この「甘え」から生まれる「無責任性」の結果は、自分自身は「自由と民主主義」の能動的な担い手にはならずに、大きな力を持った権力によって、それを「守ってほしい」という願望になる。
権力から自立した精神が自由であり、自己の意志を権力の中に反映し実現させることが民主主義である。そこからすれば、日本国民の求めることは、そういう西欧近代思想に立脚した自由民主主義とは違う。しかし、それでも、自由と民主主義を必要と思っていることは、嘘ではない。いわば「依存体質的な自由民主主義」であると言えるだろう。ーーそれが、ここでいうところの「自政社会」である。
しかし、自政社会が、必ずしも悪いと言い切れるだろうか?もちろん、そうではない、という人もいるだろうし、最終的には、個人によって異なるのは当然だが、ーーしかし「責任を持ちたくない」「できれば責任を回避したい」というのは、それほど特別なことや異常なことではないと思う。もちろん、それが「良いことか?」と問われれば、疑問に思うのが普通だろうし、ましてそれを「正しいことか?」と言われたら、「正しくない」というのが素直な答えだと思う。それは正義ではない。
正義ではないかもしれないが、しかしそこには「やさしさ」がある。ぬるい、甘い、いいかげん、適当、だらしない、惰性的、馴れ合い、中途半端、
ーーその通りだと思う。
しかし「甘え」は、それほど悪いことなのだろうか?ーー僕は、そうは思わない。まず「甘え」があって、甘えを求める気持ちがあって、その甘えを受け容れてくれる人がいて、そこに初めて「甘え」は成立する。それが要するに、「やさしさ」というもの、すくなくとも「やさしさ」の原点が生まれるのだと思う。それが、いわゆる「愛」の源流であり、比較的日本人に馴染みやすい言葉では、たとえば「慈愛」だと思う。その慈愛が人類的な普遍の真理と力をもつとき、それは「LOVE」になる。LOVEが理念的な思想になったものが、博愛であり人道の精神である。
自政社会は、「人任せ」「あなた任せ」の生き方であり、愛や正義や人道や平和を欲し、そのために必要な理念とシステムの手段である自由と民主主義を、政府や国家という権威や権力によって保障され保護してほしいと願う。それが「自政社会」である。日本国民は自由と民主主義を自民党に「委託」した。
例えれば、自民党と国民の関係は親子に似ている。物わかりのよい親と従順な子供に似ている。親は時として横暴だったり「分からず屋」だったり強引であったりもするが、基本的には、普段は優しくて物わかりがいい。子供はそんな親に自覚もなく甘え、おねだりをし、保護されることに安心感をおぼえる。共依存ともいえるし、子は甘えを許されるし、親は甘えられることで嬉しくもあり、また子を守っているという心地よさもある。だから、だいたいの国民、といっては極端だとしても、それでも多数派の国民と自民党とは、持ちつ持たれつの感覚を維持できる。だが国民の全てがそのように「甘えながらも従順」ではないし、自民党も必ず寛容なわけでもない。
自民党のいう「自由」と「民主主義」は、「与える」と「与えられる」が基本の関係である。国民が能動的にそれを獲得することは望まないし、それを嫌う。自民党の根本を揺るがすからだ。だからそういう能動的な国民は、異端児、問題児となり、不良・非行で親不孝者である。たとえば革新勢力・左翼・リベラル・反戦平和、等々の国民は、その主張や運動そのものに対しては、それほど本気で憎んだり抑圧しようとはしない。それは「反抗」「世間知らず」「若気の至り」であり、むしろ「微笑ましく」さえある。せいぜい「困ったものだ」という上から目線で「しょうがない連中だ」くらいに思い、ある種の満足感を得る。そういう困った子供を許している寛大さに優越感と自己満足を感ずる。自民党が真に恐れ憎むのは、責任と自覚を持った生き方をし、さらにそれを思想にまで確立した「自立した精神」であり、自立した生き方を求める人間である。そして、そういう人間の「関わり」と「つながり」そして広がりである。それは個人の確立を意味する。個人の個人による個人のための「ふれあい」と連帯ほど、自民党にとって恐怖はない。それは徹底した「個人の尊重」であり「個性の尊厳」である。それは「個性愛」と呼んでもいい。個性愛は、究極、個人のための集団、個人のための社会を求めていくようになる。すべての個人のすべての個性が「平等」に愛されるゆえ、そこには上下や優劣の感性と関係はなくなり、抑圧や差別は、たとえ皆無が難しくても、極力は減っていく傾向になる。愛と自立が矛盾せず一体となる。完全なる自由である。またその自由のもとには、結果としての民主主義が実現される。自由とは、自分自身を含めてのすべての人間が幸福になることである。したがって、すべての人間のための行動やシステムや関わり合いの社会、つまり民主主義になる。
自民党が恐れ否定しようとするのは、そのような個性愛の世の中であり、そのような個人である。
自民党は個人を嫌う。特定の個人を支持したり応援することはあるが、個人を愛することとは違う。それは集団や国家などの権威やプライドのためにすることだ。
自民党は、野党やマスコミだけでなく、与党内からも含めて、つねに批判をされ続けている。それほど批判されながら、けっきょくは政権を維持する。国民は、気楽に、無責任に、自民党や政府を批判する。それが自民党の強みであり、自民党が支持される理由なのだ。国民は本気で「自政社会」を変えたいとは思っていない。しかし不満はぶつけたい。自民党もそのことを知っている。自民党と国民の馴れ合い。それが自民党政権=自政社会である。