「いさぎよさ」の見直し

「いさぎよさ」を必要以上に評価、賛美するのは考えものだ。

物語や、じっさいのエピソード、あるいは宗教・道徳・思想などの格言などで、たしかに人々は「いさぎよさ」に憧れる。

しかしそれは現実的ではない。現実的でないからこそ、人々はそこに疑似体験と一時の夢を見るのだ。

「いさぎよさ」、「誠実」「義に殉ずる」ーーそういう美談めいたものは、英雄談やヒーローものによくみられることだが、それは物語の「ヒーロー」だから許される「常道」のパターンであり、シナリオの筋書にすぎない。

ずるく、その場しのぎで、言い訳だらけで、なんでも自分の都合よく解釈する、裏切りは当たり前で、その時々に得になるほうの味方になる…等々のふつう「卑怯」と言われる行動は、じつは人間として「当然」のことであると思う。ただ人々は、そのことを認めたくないのだ。ーーだから人間は卑怯なのだ。