権威なき言葉

言葉から権威が失われた。良いことだ。権威によって言葉が力をもつ時代ではなくなった。虚構が1つこの世から消えた。

言葉から権威がなくなるというのは、言葉を発する者の権威もなくなるということだ。それは究極には、あらゆる権威が世の中から消えることにつながる。

もはや国語の授業などは不用になった。とりあえずの読み書きができればいい。「正しい日本語」など、もう無い。もともとそんなものはなかった。無理に権威のために作ったにすぎない。

言葉は乱れた。それでいい。これが、たとえば三十年ぐらい前であったら、現在のような言語の状態を、有名な評論家などが「昨今の日本語の乱れを嘆く」とかのタイトルで批判するのだろう。さも良識ぶった教養人という感じで。戦後三十年ぐらいまでは、それが「りっぱ」に通用した。戦後五十年ぐらいで、かろうじて通用しただろうか…ぎりぎりのところかもしれない。だがその時代は終わった。言葉に「まじめさ」は無用になったのだ。それは邪魔にさえなった。

言葉から権威がなくなったように、ほかのあらゆることから権威がなくなることをせつに願う。