感性の変容

人間の感性が普遍的だということは誰が決めたのだろうか?もちろん誰が決めたわけではない。ただいつのまにか多くの人々が、なんとなくそのように思いこんだというだけだ。

日常の快・不快、コミュニケーション上の問題、感情、音を雑音と不快に感じるか心地よいメロディと感じるかは、個人差があっても、ある程度は人の生理的な本能が左右するかもしれない。普通に思われている残虐といわれる事故や殺人などの写真を不快に感じる人々が多いことは事実だろうが、しかしそれを好む人々もいるし、それが少数派だとしても時間の経緯や環境により、変化することはある。

芸術や文学などもそうだし、テレビのバラエティ番組の人気が有る無しも当然に人々の感性しだいだ。SNSの世界も同じだ。

人間の好みは基本的に感性で決まる。社会の善悪も感性が前提になっている。道徳的なことも、哲学的な論理も、それをどのように感じるかは結局は感性だからだ。

時代や環境で感性は変わる。人間のもつ感性は普遍ではない。

SNSなどスマホやパソコンの世界も含めて、テレビやラジオなどのマスコミも、新聞や書物など文字媒体が中心のもの、漫画やアニメ、映像、音楽・音声…街の声、噂話、

コミュニケーションは自己の周辺から地球の裏側まで、すべてなんらかの媒体つまりメディアによって操作されている。自分自身が、知らない無意識のうちにメディアを操作しているのかもしれない。

無意識に感性は変化する。世の中の感性が変わる。個人は、無意識にメディアの巨大な感性その波の上に漂っている。個人はもはや事実上いない。メディア感性ーー「メディ感」とでも略せばいいか…その時代になった。