民主主義も帝国主義を生む

独裁政治や全体主義帝国主義に成りやすいことは確かだ。だが民主主義も帝国主義を生むことがある。

民主主義を大衆政治と同じにしていいかはともかく、大衆のエネルギーは、侵略や独裁を求める場合もある。民族や国家、或いは宗教やイデオロギーなど、自分の所属する、或いは自分が属していると感じている集団にたいして、それに自分自身とを重ね合わせてしまう感覚になる人々は多い。これが差別や排除、ひろくナショナリズムと呼ばれるものの元になる。それが結果的に独裁や全体主義を生み、また対外的には自国や自分の所属する民族などを優越したものと思いたがることに結びつけるようになる。多くの侵略的な行為はそのようにしておこなわれる。強権政治も侵略戦争も、多くの場合は、大衆的な欲望によって為される。それは政治や経済や戦争をゲームのような感覚で考えることに等しい。そこにはリアリズムはない。

民主主義政治から安易な独裁政や侵略戦争、差別や排除、自由の抑圧など、強権政治から守るためには、大衆に感覚を通して関わり合う姿勢が必要だ。理論や理屈は大切ではあるが、しかしそれを用いるのは二の次でよい。それより大衆とは感性で語ることが大切だ。感性こそ本質だ。とかく知識人や専門家は、理屈で説明し説得させようとする。しかしそれは時間が必要であり、金銭的な余裕もなければならない。理論や知識を受け入れ思考するための土壌も必要だ。多くの人々にそれを求めるのは難しい。

難しい理論や議論は放棄し、きれいごとを言わず、欲望に沿った真理を示すことだ。人々の欲望を否定したりそれに反対するのではなく、欲望を肯定することで自由や人権や平和を守る方向に進める。感性とイメージを重要視することが必要だ。