男性の論理を支持するメディア

ウクライナ=ロシア戦争のメディアの在り方が「力」の信奉のイメージが強くなってきている気がする。これは「武力」「戦力」「情報」「プロパガンダ」「フェイクニュース」「狂気じみたプーチン」「領土問題」「戦争犯罪人」「NATO」…毎日のように飛び交う単語そのものからして、戦争だから当然といえばそれまでだが、如何にも露骨な戦略論や政治的駆け引き、パワーゲーム感覚のようなものを感じる。
映像にしても、ロシア軍の戦車、ロケット砲を構えるウクライナ民兵、次々とプーチン批判を語る世界の有力者たち、Gセブンやサミット的な会合での対ロ方針、ポーランドにのがれたウクライナ難民、経済制裁、演説するゼレンスキー大統領…ひと言でいえば「ロシア軍の横暴」と「正気を疑われるプーチン大統領」、世論と政治家、ーメディアはロシアとプーチン大統領が「包囲」されてきているか、意図的にかは判らないがそう思えてしまうようなメディアの方向だ。
例えばテレビで取り上げられる政治家や批評家などの口から次第に目立ってくる発言には「自分の国は自分で守る」「ウクライナの支援がこれほど世界的に高まったのは、ウクライナ国民が強力に抵抗をしているからだ」というように、そこから如何に日本の安全保障が脆く危険かという主張の方向性に向かっている。
これらは概ね、プーチン大統領とロシアの野蛮性を強調することでーそのことじたいは本当であるがーそれと共に人間の心に、「わる者」をクローズアップし、闘争本能を駆り立て、「力」による「正義」の実現、勧善懲悪のドラマのストーリーを作っているように感じられる。そこにロシア軍を食い止め狂気じみた独裁者プーチンを如何に倒すかに焦点を当てる。それは必要なものだが、一面ではあきらかに、そのためという理由から、人間の深層に攻撃性を植え付ける。それが意識的なものか否かまでは判らないが、結果はそれをもたらしている。
ロシア軍の侵攻を阻止し、プーチンの力を削ぐ、それが戦争をやめるために必要なことであればーそして、基本的には、おそらくそれは必要なことであろうーそれならそれをすればいい。それが戦争をやめるための方法の全てではないとしても、有力な手段であるならば必要なことだ。
しかしそれにしても、やはり一連の空気、メディアのかもしだすイメージは異常だと感じる。
ワイドショーを観ていたら、出演者の1人がーそれが誰か解らないが、それはここでは問題でないーその人は、プーチンの病気説に関して、プーチンが重病であってほしいという意味のことを言っていた。その番組やその出演者に限らず、最近は当たり前のように、「プーチンの死」を求める、あるいは明らかにそれに等しいような発言や言説そのイメージやムードが「当然」のように流れる。自分は言論・表現の自由を支持する。だからその自由は、すくなくとも自分は素晴らしいと思う。そのこととは全くべつに、その発言や表現の内容に対して感ずる。プーチンが死ぬなり重い病気になると、それで戦争が終わるかどうか、自分は判らない。戦争が少しでも早く終わるなら、そのことじたいは無条件で良いことだ。ーだが、それはそれだ。あたりまえのように、1人の人間の死を望む言動や風潮などが、それが個人的な感情やつながりではなく、それが「世界的に凶悪な独裁者で侵略者」であるということで、その人物に対して「早く死にゃイイのに」、「誰かプーチンを殺してくれないかなあ」…その風潮。仮にそれもまた仕方ないことだとして、また一般にそういう空気になるのもある意味で当然だとしてーしかし、一定の見識を持つと見られている、影響力もそれなりに大きいであろう人々が、マスメディアで、それに多少なりともの遠慮や躊躇もまったく無く、ごく当然のように「これでプーチンが重病なら、それがいちばんいいんですけどね」…のように、なにかそれは違うような気がする。それでもそれなりの表現の仕方はないのだろうか。プーチンの自業自得だ。そうだとしても、「プーチンは悪い」だから「プーチンの悪口なら何を言ってもいいんだ」、そうだとは言える。だが同時に、ほんとうにそれだけでいいのだろうか。そこに対して、なんの疑問もためらいもないのだろうかー一方でそれは正しい、あるいは仕方ないとしよう。それと同時に、何か、でもそれだけでいいのだろうか?と考えざるを得ない。
こういう傾向は、このムードは、その理由は解るとしても、やはりこのことじたいは「力」「暴力」「破壊」そして「衝動的」「攻撃的」なものを感じる。それは、いわゆる男性的、「男」的な社会、「男の生理的」な欲求のいびつな変化ではないかと感じる。これは性は女性であっても、女性・女という、もう1つの性「集団」も巻き込んでの動きのように思える。人間も生物である。ただ他の生物と違うのは、雌雄の「雄(おす)」が、たんに本能的な性質のみならず、それが暴力や権威・権力、名誉や優越性といった自己承認欲求と支配への欲求が、他の生物に比べて比較にならないほど突出しているということだ。
この「男」的な部分を最も露骨に出しているのはプーチンであろう。しかし、それに対抗するために、プーチン批判の側もそこに乗じているように思える。こういう状態にあって、それは仕方ないことであることは認める。ただそれでも、こういうときであるからこそ、「ほんとうにそれでいいのだろうか?」ということも考えたい。