利他的と集団と戦争

戦争は集団で行われる。理論的に1人だけでする戦争とか個人がする戦争というものは、事実上はありえず意味はない。戦争は集団と集団のあいだに行われる武力紛争である。

通常の感覚で、武力を用いての大規模な戦いが可能であるためには、敵対する集団を憎み、破壊的な衝動がなければ為せない。なぜそのような破壊的な感情になるのか?それが愛国心とか国防意識などと言われるものだ。それらの感情は、どこから生まれるのだろうか?ーーそれは、利他的なものから生まれる。利他とは、自分自身よりも、自分ではない者を大切に感じる気持ちのことだ。

利他的な気持ちや行動は基本的には良いもので大切なことだ。しかしそれが自己の帰属する集団だけに向けられると、それは他の集団、とくに自己の所属する集団に敵対する集団に対しては、攻撃性の感情が生じ、敵対集団に対しては利己的になる。個人的な、仲間内の、自己の属する集団に対して利他的であることが、自己と集団が同化する感覚になることで、自分の身近な人間、仲間、同族意識、集団や組織、そして国家に対する利他的な感情と行動となって結びつく。それゆえ利他的な人は、自己を他者のために犠牲にすることを厭(いと)わない。

利他的な人のなかには、利他の対象が自己の所属集団だけでなく、無制限的に、誰に対しても、全ての人々に対して向けられるという人間もいる。この人々は、人間それじたいに対して利他的である。しかし一般にそのような人は数的・比率的には極めて少数だ。それゆえ例えば戦争のような国家規模や民族紛争のような大規模な集団間の問題になった場合には、殆どの場面は、裏切り者や反逆者として排除されまた抑圧される。だから国家や民族の対立感情が強くなったとき、人道や博愛の利他的な主張や行動は、それなりの意味をもち貴重な存在ではあるが、全体の傾向からすれば、それが多数派的な力となることは難しい。まして、いったん戦争になると、それまでは辛(かろ)うじて良識の均衡が保たれていたものが取り外されて、攻撃的な衝動のみが突出する。

それでは民族間や国家間の対立、あるいは人種間や肌の色などで起きる感情や摩擦、性やジェンダーなどの確執や偏見、宗教上の問題、言語や習慣などを含めた文化摩擦の問題、もちろん学歴・職業や収入・財産などから生じる社会的な地位や立場などからくる格差・摩擦・対立など、そういったさまざまな人間や社会関係のなかで、利他的・利己的ということがどのような意味をもっていくのかということだ。

利他的な人間は、個人としても集団としても、多くの人々にとって必要であり、ありがたい。だがその利他的な方向が集団に向かうときーーじっさいそれは多いーーそれは自己の属する以外の他集団と摩擦・対立が生じたときに、他集団に対しては利己的になりやすい。かといって、利他的な対象が広く無差別な人は、それはたしかに重要で尊いと思うが、数的には少ない。

そこで重要な鍵を握るのは利己的な人間だ。利己的な人間は、それなりの数がいるだろう。いや、かなりな数であろう。利己的な人間が賢くなる必要がある。それが利己的な人間にとっての利益になる。

利己的な人間は正直になることだ。なにもバカ正直になることはない。ただ自分自身の気持ちに対しては正直なほうがいい。そのほうが事実の認識がしやすく、間違いをすることが少ない。また利己的な人間は、見栄やプライドを捨てることだ。強がりや虚飾や格好つけや、などをやめることだ。利己的である者が、そんな大した人物であるわけがない。できるだけ早く見栄だのプライドだのは捨てたほうが得だ。そして利己的な人間は、相手の気持ちや周囲の人々の立場などを、よく考えることだ。そうすれば、結果的に自分が生きやすくなる。そしてまた利己的な人間は、他者のためになろうとするときには、その自分の行為の理由が自分自身のためなのだということを自覚したほうがいい。しょせん利己的な者が、他者のためになどと思えるわけがない。なまじか他者のためになどは考えず、徹して自分の損得を考えるほうがいいし、そのほうがいい結果になることが多い。ただ、どうしたら本当に自分の得になるかを求めるのだから、そのためには相手側の気持ちを知ることが大切になる。利己的な人間は、自分の周囲と協調し仲良くすることが必要だが、同時に広く世界を見ることを忘れないことだ。利己的な人間が自分の身近な人々と関係がうまくいくことを望むのは当然であり、まずは自分の属する世間と協調していくのは当然だ。そうでなければ自己の利益を得られない。ただし、自分の住んでいる場所や周辺の人々だけが世界の全てではない。全般的なことも認識する視点を忘れないことだ。

エゴイズム、エゴイストが、平和な共生社会の世界を築く役割は大きい。そのことを、もっと多くの人々が知るべきだろう。