集団と利他主義

海外のことはひとまずおき、日本でときどき日露戦争なり太平洋戦争なりを舞台とした映画が作られ、そのたびに話題となる。そして必ず政治的な批判と賛美が、思想的な両陣営から聞かれる。その主張の内容は殆どいつも同じで、「反戦」と「愛国」の衝突となる。

愛国心を強調した作品に左翼や反戦家の側から批判が出るのは普通のことで、僕はそういうことに対してはとくに賛否はない。僕が考えるのは、なぜ相当な批判が出るのを承知でそういった作品が作られ、そしてそれがたいてい賛否両論あるなかで、ある一定の支持が得られるのか?そこに興味がある。

戦闘シーンや戦場の場面などに高揚感をもつのは多くは男だろう。女でもそういう人はいるだろうし、それに対しての感想を僕はとくにもたない。いずれにせよ性別やまた生物としての人間のもつ闘争心や支配欲求がどのような構造をもっているのかは僕には解らない。

たとえば特攻隊や戦艦大和を主要なモチーフにした作品で、戦争ごっこ的に、あるいは今はゲーム感覚で、それを楽しむ人々がいて、僕はそれをどうこう言うつもりではない。

それよりもテレビのインタビューで映画館を出てきた若者たちが「感動しました」「国を守るために命をかけられることって素晴らしいなと思いました」といった感想だ。感想は自由で、その内容の批評も僕はしない。ただ興味がある。自己犠牲というものは、なぜ多くの人々の心をうつのだろうか?と。おそらく想像だが、個体の自己犠牲が種や全体を救う場合、個の犠牲は全体の利をもたらすということで支持をされやすいのだと思う。これは思想信条の種類を超えて一般に分かりやすいと思う。

よく左翼や反戦平和の立場をとる人々は、愛国心や戦意高揚を想わせる感覚の強い作品などに対して「軍国主義復活」や「侵略戦争に対する認識不足」あるいは「皇国史観」や「歴史の逆行」といった批判を浴びせる。それらの内容については、おそらく、概ねは正しいかもしれない。だが、このようないわゆる左翼や反戦平和を主張する人々には、大きく欠けているところがあると思う。それは自己犠牲や愛というものが、そういう過去の日本の軍や戦争を肯定的に描いた作品には、少なくとも、ある程度以上の人々の気持ちを動かしているという事実を軽視していることだ。

その手の作品が宣伝される場合に多いキャッチやコピーは「愛する者を守るために戦う」とか「きみは誰のために死ねるか?」といった「愛」と「自己犠牲」を強調するものが多い。そしてそれを「美」の感性へと持っていく。

よく「ふだんは虫も殺せないほど優しい人でした」が、「戦場では、それはそれは勇猛な戦士だと聞きました」、というような話を聞く。こういうことは昔から、いつもどこかで、聞いたり読んだりという気がする。あるいは戦場や敵の捕虜や、また強制収容所などで残虐なことをしたという人に対して「ひどいことをしたと非難をされましたが、自分にとってはとても優しい父親でした」とか「あの人がこんなことをするなんて信じられません。あの人は私の上司だったことがありましたが、あんなに親切で部下想いな人を他には知りません」とか。それらは本当にそうなのだろう。つまりよく言われることだが「彼(彼女でもいいが)は個人的には人格者として尊敬され、みなから慕われていた」が、軍人なり政治家なり、あるいは革命家なり、指導者や戦士になると人が変わったようになると…

僕が思うのは、利他的な人、利他主義、利己主義を強烈に嫌う人…そういった人が、わりあいーーその比率や程度は解らないが、そしてもちろん利他的な人がみなそうであるというのではない。しかし、こういうことは、往々にして言えるのではないかーー利他的なエネルギーが集団のために向くと、それは一歩まちがえると、自己の帰属する集団に対する利他の想い故に、他の、とくに敵対する集団に対しては強烈な利己主義に転じてしまう危険が大きい、ということだ。その集団は、家族や地域かもしれない、自分の信じる宗教や思想かもしれない、職場やその組織かもしれない。とくに同族意識や仲間の感情といったことからは、人種や民族、そして国家といったもの。

「利他」というものは基本的に良いものだと思う。そして必要なことなのだと思う。だが同時に、それが集団の意識のなかに取り込まれると、他の集団に対する攻撃性に転じることがあるということは知っておくべきだと思う。戦争や革命などの紛争、独裁や全体主義などの抑圧ーーそれらは決まって、エゴイズムを強烈に憎む。それは自己の属する集団、「同族」や「仲間」に対する「利他」が、他の特に敵対する集団に対しては「利己的」になる場合が多いということだ。ヒトラーが最も憎んだのはエゴイズムだ。彼がユダヤ人を憎んだ最大の理由は、ユダヤ人がエゴイズム的な民族だと思ったからだ。少なくとも彼はそう思った、あるいは思い込んだ。べつに政治や戦争のことだけを言っているのではない。ただヒトラーは決してエゴイズム的だったから、あのような残虐なことをしたのではない、ということだ。そうではなく、逆に利他主義民族主義国家主義を生むのだということを強く認識しておかねばならないということだ。

自分の帰属する集団を大切にするということと、しかしそれ以外の集団やそこに属する人々との関わりを大切にすることが如何に重要であるかを常に認識する必要がある。

多くの人々が、「利他的であるか」「利己的であるか」のことにこだわることよりも、「何に対して」「誰のための」、「利他的」であるのかを重視して考えなければならない時代が来たのだと思う。