利己・利他と自分

僕は利己的なので、利他的な人が好きで利他的な人の必要性を強く感じている。

利己的な人間の基本的な特徴は、自分は他者から益を得たい、というものだ。そして自分は、それが自分の益になる場合には、他者の益を望むが、自分の不利益になってまでは他者の益を望まないということだ。

それでは利己的な人間は、他者を害してまでも自分の益を望むかといえば、状況次第だと思う。他者を害しても自分が益を得て、しかもそのことによって自分が不利益にはならない、ということであれば他者を害する。これは相対的に自分が強者の場合だ。だから明らかに自分が弱者あるいは強者といえるかどうか微妙な場合などは、他者を害することをしないか、それを控えると思う。

利己的な人間が利己的な人間を求めたり好きになったりするときは、その利己的な人間が、利己的な故に、それが自分にとって益になる場合そして尚且つそれが自分にとっては害にならない、という状態のときであろう。

利他的な人間は、自分ではなくて、自分ではない他者の益を欲する。それ故に、思考や行動において、それが自身の不利益になるかどうかといったことに関しては、あまり考えないか、さして問題にはしない。また利他的な人間は、他者の益を優先的に欲するため、他者の益に反する結果になること、つまり他者が害を受けることを嫌がる。故に利他的な人間は、基本的に他者を害しない。

利他的な人間が自分以外の、やはり利他的な人間に対して好感を持つのは普通だ。一方、利己的な人間に対しては、好感は抱かないだろうが、かといって特別に批判的かどうかは言い切れない。利他的な人というのは、自分以外の人々に対して益があり、また害がなければ、その個々人が利己的か云々ということに対しては特別な感情を持たない。ただ自分自身が他者に有益であろうとし、無害であろうとするだけだ。ただし利他の気持ちの結果として、利己的な個人および集団などが、より弱い者に害を為すことに対して怒りを持つということはある。

利己的・利他的は、基本的には個人のことだ。その場合にその利己・利他というものが、どこに向けられるかということがある。

基本的に利己的な人間は、いつ誰に対しても自分は変わらない。どういう立場であっても、どんな関係の者に対しても、利己的という本質は変わらない。

利他的な人間は、立場や関係によって変化が起きることが普通だ。自分の好きな人間、家族や血縁、地域、職場、趣味やサークルなど、あるいは宗教や政治その他信条を同じくする者、また人種や肌の色、言語・習慣などを同じくする者やいわゆる民族に対して、また国家に対して。そうした自分の好きな個人や人々、また自分の帰属する集団などに対して利他的であっても、それ故に、その自分が帰属する集団の益になるためには他の人々や集団に対しては利己的になる、ということは珍しくなく、むしろ普通だ。その場合は、集団としての利己的な方向に自分自身も利己的になるということだ。

自分の好みや帰属的な集団に関係がなく利他的な人間は、その状況によっての多少の変化はあるにしても、基本的には、その利他の対象に対する差別はない。実際の状況での利他の行為の優先順位はあるかもしれない。その優先順位は、その状況で最も益を必要としていると思われる者を最優先にする判断がされる。基本的にその対象は、いわゆる弱者ということになる。この場合の弱者というのは、その時々や状況などにおいて、最も益を必要として且つ他にその益を得ることが困難だと思われる者、といった人々のことだ。

利己と利他という個の本質的なことがあり、その利己と利他も対象によって変化がありうる、ということである。