理想主義の恐さ

理想主義の個人や団体が恐いのは、ひとつは「理想の実現のためには犠牲はやむをえない」という、目的達成のためには何をしてもいいというもの。
もうひとつは、理想主義者に対する、周囲の見方だ。現実にひどいことをしていても「理想のためにしているのだ!」「理想のために頑張っているのだから」というように、理想主義的な人々や集団にたいして「好意的でありたい」「自分は肯定的であるはずだ」といった、自分自身が「理想主義に反対してはいけない」という感情が、大なり小なり、湧き出てくるからだ。理想主義の言葉を主張するものにたいする「遠慮」「負い目」、そういう感覚が、つい正直な率直な自分の気持ちを抑制してしまうのだ。とくに左翼や社会主義者などにたいしては、あきらかにおかしいと解ることでも、「あれは一時的なものだ」とか「仕方がないことなのだ」というように、なにか「ものわかり」がいい考えや態度になってしまう。歯切れが悪くなる。それはたぶん、そうしないと、自分が保守反動の味方や応援をしてしまうのではないかと、一種の強迫観念が生まれるのだ。結果、理想主義とか左翼とか反体制などにたいして、認識や評価が「甘く」なる。これらの感覚や性質は、みな全員がそうなるわけではない。ただ、比較的に、そういう傾向があるということである。