流行に敏感な人々

僕自身は流行に鈍いほうだが、だからこそ逆に、いわゆる流行に敏感な人々というのはどのような人々なのだろうか?なぜ流行に敏感なのだろうか?ということに疑問や不思議さを感じ興味をもつようになってきた。自分が勝手に思ったことだから、それがどれだけ本当のことに近いか、あるいは全く違うかは正直、よく判らない。ただ、とりあえず考えてみたことを記してみよう。
いちばん素直に思ったのは、流行に敏感な人々は、たぶん「周囲の状況」のことに敏感なのだと思う。当然といえば当然かもしれないが、やはりたぶん、「ほかの人たちは、何を好きなのだろう?」「世の中では、どういうものが求められているのだろう?」と思うのだろう。なぜそう思うのかといえば、これもたぶんだが、「多くの人たちが好むものや夢中になっていることを自分もしていれば、周りや多くの人と仲良くなれるだろう」ということではないか。そうだとすれば、それは当然のことだろう。僕もそう思うが、僕の場合は、そこまでするのがめんどうなだけだ。かといって仲間や親しい人々が欲しくないわけではないし、多くの人たちと仲良くなれるならそのほうがいいに決まっている。あとは、それとそのために、いわゆる流行を気にしたり興味を持とうとしたり、そのために多少なりでも努力や我慢などもすることは「めんどくさい」のほうが勝るというだけだ。
あとはおそらく、最初の理由がどうであろうと、流行という現象に触れること、流行ということに慣れ親しんでいるからかと思う。それは無意識のうちに当然で普通になっているのだと思う。
そして…これがむしろ、いちばん大きな理由なのかもしれないがーー流行に敏感な人々は、流行を作っているのかもしれない。たしかに流行に敏感な人たちはいる。それは多いだろう。その人たちは、自分が流行に興味を持ち、自分は流行に乗っていると思っているかもしれない。それはそうだろうが、しかし実際には、流行を作り生み出しているのは、流行に乗ろうとして流行と共に生きている人たちなのだと思う。その名のとおり流行=ファッションをはじめ、料理やグルメ、旅行、今は言われなくなったかもしれないが昔は流行そのものをあらわすような「流行歌」というもの、それでなくても現代でもそれなりに「はやり」の曲やタレントやグループはいるだろう。以前のようにではなくても、今は今で、はやりの本や映画やドラマもある。文字通りの「流行語」という言い方さえある。
ーーそれら諸々の社会現象と言われるような世の中の動きや風潮、さまざまな文化と生活の「うねり」や変化…流行はやがてすたれ、それが何十年後かにまたリバイバル・ブームなどと言われて復興ムードになる場合もある。そうして世の中には文化という「塵(ちり)」が舞い降り、そのいくつかは知らず知らずのあいだに歴史に蓄積されていく。それはやがて「文明」という人類の生存のその基盤そのものになっていくのだろう。
流行は作るもの、あるいは作られるものだろうか?結論をいえば、たしかに作るもの、作られるものではあると思う。ただ僕は、全く根拠も理由もなくて、それが作為や意識的に、すくなくとも「一方的」に作られるとは思えない。たとえ潜在的にであれ、それが人々のーーそれもかなり多くの人たちのなかに「願望」や「情動」として存在しているからこそ、それがメディアなり個人なり企業なりの「戦略」などによって呼び覚まされ、活発化していくのではないかと思っている。だとすれば、流行は明らかに多くの人たちの意思や気持ちであり、それをたとえば政治的なことに当てはめれば、まさしくいわゆる「民意」ということにもなる。つまりそれが選挙で勝利した政治家や政党にとっては「民意の反映」であり、多数派の支持ということになる。多数派の支持を得た政治は、流行を把握しそれを有効活用したものということがいえるのだと思う。
いずれにしても流行を作る人々は、多くの人々の「潜在的な望みや好み」を判っている人たちなのであろうということだけはいえると思う。