争いはどこから生まれたか?

ウクライナ=ロシア戦争は、今いちばん大事なのは、まずは少しでも早く停戦をすること。次に現場の人道支援的な救援活動をすること。それから難民を各国が受け容れること。そして今後はこのような争いが起きないようにすることである。
なぜこのような争いになったのか?ー結果を言えば自分には解らない。自分には解らないし理解する能力もない。ただ争いは恐いと思うだけだ。自分がこのように書いていることは、なんの論理的根拠も客観的認識もない。ただの感覚でしかない。しかしそう感じるのだから、それを記すだけだ。
メディアは今とくにプーチン大統領の戦犯問題のことを報じている。それはいいだろう。しかしなんのために?本来の答えは簡単だ。それによって、今後このようなことが起きないために、「防犯」の効果を期待してだ。それは判るが、どうも報道に触れていると、ただやみくもにプーチンを「被告」にしたい、「犯罪人」にしたい、というなにか「復讐」「みせしめ」「制裁」を課したい、課させたいということを感じる。法理論のことは解らない。そこでいえば確かにその通りなのだろう。ただ政治的に感じる。政治的なものを、まるでみなが刑事訴訟の検察官にでもなったかのようなイメージやムードに流す感覚は、メディアの健全な姿なのだろうか。しかしそれは国際法のことだから
手続きをとればいいとは思う。
軍事力というものを、今更だが恐いと思う。国土の広さや天然資源の多さ、経済力、人口…国の規模や強さを計る目安はいろいろだが、軍事力というのはいけない。恐いからだ。直接な暴力や破壊力を持つからだ。しかしだからこちらも軍事力で対抗しようとするのは、軍拡競争に火をつけ、ますます軍事競争が激しくなるだけだ。軍事力は「持たない」のがけっきょく安心できるということだ。軍事力を持ちそれを強化するほどに不安は大きくなる。
民族は集団だ。必要だから集団は生まれる。だが要は個人だ。個人とは「すべて」である。民族でも村でも都市でも家族でも企業でも組合でもサークルでも政党でも宗教でも国家でも国際機構でも国連でも、ーすべての基礎は個人だ。個人のための集団という意識と実態を確固たる基盤とすることだ。
文化の差異、それはよほど誰の目から見ても仕方ない緊急性のあると思われること以外、原則これを自由に交流・売買する。たとえば日本でいえば韓流ドラマが人気があれば、余計なことを考えずにどんどん輸入する。日本の文化に対して韓国がどうとか反日的な学校教育がされているとか、そんな些末なことは言わない。そのようなことは偏狭な愛国心ナショナリズムであり、異文化コミュニケーションの理念に反する。
自由、デリカシーと良識、素直さと認識力の鍛錬…それらが平和を築く。