ウクライナ支援と軍事支援

ウクライナは軍事支援を求めている。ウクライナの立場としては当然だろうと思う。
しかし軍事支援とは同時に、戦争を長引かせることに通じることもたしかだろう。
軍事支援というのは、いまのところ、武器供与と義勇兵による参加だろう。これに傭兵が加えられるかは考え方にもよるだろうが、傭兵は金銭的な契約によるものなので支援という概念からは外して考えるべきだと思う。
軍事支援は何をもたらすのだろうか?それは戦争を長期化させること、ウクライナの防衛を有利にしロシアの侵攻を弱めることーーおもにこの二つだ。総体としてのウクライナ国民の意思を尊重する意味からは、軍事支援は肯定される。ただ個々のウクライナの個人っしては、それは1人ひとりのことになる。一方、民族や国籍や政治的なことを超えて「人間」ということを考えると、戦争の長期化は単純に考えて死傷者の増大を意味する。
軍事力に対して軍事力で戦うことは、さまざまな立場や利害や政治的な力関係などを超えて、共通の「人間」ということ、その「人命を直接に奪う」という戦争をやめさせることに重点を置いた場合…軍事支援はしないほうがいいと思う。軍事支援でも、日本の政府がしている防御のためで攻撃の目的でないものは、支援してもいいと思う。たとえ防御のためであっても軍事的なことには変わらないという意見がある。それを軍事学国際法からみてどうなのかということは解らない。ただ、こういうことがいえると思う。
よく日本の国防を重視する人々が非武装論に対して反論するのに「戸締まり論」といわれるものがある。「あなたがた自分の家に鍵をかけるではないか」と。それから考えてみたい。泥棒や暴漢に侵入されないために鍵をかけるのは、「防ぐ」ということではあっても、攻撃をすることではない。軍事的な問題も、それと基本的には同じようなことがいえると思う。防弾チョッキやヘルメットも、防御を含めての攻撃であるということでは、たしかにそうかもしれない。五十歩百歩の誤魔化しであり苦しい言い訳かもしれない。しかしたとえそうであっても、それじたいは破壊力や殺傷力を持たないものなのであるならば、基本的にはそれを普通にいう武器とか武力ということとは違うものとして考えてもいいと思う。楯を持っていても、剣で相手を倒したり傷つけたりするのとは、やはり違うと思う。たとえばシェルターなどの場合も似ていると思う。シェルターの中に軍隊がいるとする。その軍隊は、シェルターに隠れているから安全を守られる。結果的に、防御されることによってその軍隊は安全が守られ、その軍隊は攻撃・戦闘をすることになれば、シェルターは軍隊の攻撃力を可能にしたということで、攻撃力に協力したということになる。しかしーーそれでもやはり、シェルターそのものは、攻撃をしたわけではない、と思う。そのシェルターに、たとえばミサイルの発射台を設置したら、それは攻撃用の兵器になるだろう。しかしシェルターそのものは、その運用次第でたしかに微妙なものになることを否定できないが、でもやはりシェルターそのものは攻撃力とは違うと思う。ーーそういうことを含めて、基本的には軍事的な支援は、やめるべきだと考える。