プライドのくだらなさ

人間はなぜプライドを持つのか知らない。しかしプライドほど有害でくだらないものはない。
はっきりとは解らないが、そしてこれといった根拠もないが、しかし自分は、たぶんー屈辱感からプライドは生まれるような気がしてならない。屈辱感を経験しない人間もプライドを持つのではないか?それはおそらく、表面的にはそう見えても、じっさいにそのひとのなかでは、屈辱感があるのだと思う。たとえば自分の頭の中で勝手に膨れ上がった妄想とか。
プーチン大統領の行動は、そういう妄想を含めてのプライドが大きく関係しているのではないだろうか。しかしそれはプーチンに限ったことではないだろう。ただ彼の場合は権力の頂点に立ち、その国家がロシアという核大国であることが、それを可能にできるという条件が露骨な侵略という行為を容易にできる、もしくはできると思ってしまったのだろうと思う。
権力というものがあり、権力者はいる。暴力と戦争は、簡単になくなるものではない。武器も軍隊もある。優劣や勝敗を競う本能があり、称賛を欲する心がある。そういうものを否定したところで消えてなくなるわけではない。かといって、まったく野放しでいいのかと言えば、それも疑問だ。
とりあえず思うのは「好き」になることはいいことだ、ということだ。屈辱感の強い人やその反動でプライドが高い人に共通するのは、総じて「好き」なことがない人、それに乏しい人のような気がする。好きなこと、好きなもの、これがあると自立できる。いま思い出す。ゴーリキーの戯曲「どん底」の「人間の髄の髄は好きなものにあるんだからね」という台詞を。
ゴーリキー、ロシアの作家。そして独裁者スターリンの協力者。そのことに何も感じないと言えば嘘になる。でもこの台詞は好きだ。好きなものは「好き」だ。ドラマ「トクサツガガガ」でシシレオーも言っていた「好きなものは好きでいいんだ」と。
べつな角度から見よう。コンプレックスが強く、プライドが高く、やたらと競争意識が強くて承認欲求が大きい人ーそれは、表面的にはともかく、ほんとうに「好き」なものがなくて、関心や欲求が「社会」にある人のような気がする。本人がそのことにどれだけ気づいているか、意識しているかはともかく、じっさいにはそうだと感じる。
自分が社会の中で、どういう位置付けかとか、自分が社会からどう思われているかとか、そういうものをやたらと気にし、つねに社会と自分の関係にこだわる。根本的に孤独で、だからこそ社会から認められたがる。
社会などは、どうでもいいことなのだ。社会は必要だが、それは機能面だけのことに限る。じっさいに必要で大切なのは、具体的な人間関係だ。人間関係さえうまくいけば、ほかのことは大抵なんとかなる。それでどうにもならないことは、あきらめがつく。
人間関係がうまくできる人は、「好き」なこと「好き」なものがある人だ。なにかをとても好きだと人に依存しない。たしかに人は必要だ。人は必要だが、でも人に依存しない。依存しないから人を愛せる。愛のある人は、破壊しない、傷つけない、押し付けない。ひがむことも妬むこともない。正確に言えば、ひがみ妬む必要がない。だから、いちばん強い。ウルトラセブンモロボシ・ダンが或る1人の小学生の男の子に言った「ほんとうに強い子っていうのはね、みんなと仲良くできる子のことなんだよ」と。
ふれあい、関わり、人付き合い、コミュニケーション…いろいろな言い方はあるだろうが、けっきょくは人間関係が要になるのだと思う。そしてそのためにも、自分の「好き」なものがあることは、とても大切だと思う。