異文化コミュニケーションについて

異文化コミュニケーションは民族間コミュニケーションといった言葉に置き換えてもいいのかもしれない。とくに冷戦終結後に次々と起きた民族紛争、旧ユーゴスラビアコンゴスーダンそしてウクライナとロシアの戦争も、民族間の問題が大きいことはたしかだ。ただ、「異なる集団間に起きる問題や課題」ということを考えるとき、それを民族という集団だけで捉えてしまうことは、そこに収まらないさまざまな課題が多いことを思わざる得ない。民族問題のほかにも、性をめぐる課題、年齢や世代間ギャップのこと、障害者と健常者のこと、さまざまな社会集団と呼ばれるものがあり、そこに無数の人々が関わっている。そういうことから、それを広い意味で「文化」と言おう。
異なる文化ーそれを「異文化間のコミュニケーション」と言えばなんとなく聞こえがいいかもしれないが、それがどれだけのことができるかは正直よく判らない。
しかし、文化の摩擦や確執は、それを「仕方のないこと」のようにいってしまいたくはない。文化と集団そして個人は、ほとんど人間の精神面の柱石を占めていると思う。それに対して社会的なことは基本的に即物的だし、主に機能面のことだと思う。そして文化と社会をつないでいるのが技術と言語だと思う。
異文化間の関わりは、究極は個人と個人のつながりを大切にするためのものだ。それが目的や理由の全てではないとしても、このことは重要視せざるを得ない課題だと思う。
いまも続いているウクライナ=ロシアの戦争はもちろんだが、それに限らず戦争というのは必ず集団から個人を視るということが強くなる。それも否定的な感情でそれは強くなる。個人は集団に責任はないのか?こんなことは言わない。しかし、集団に対する偏見や敵視の感情が、その集団を構成する個人に対してのネガティブな感情になりやすい、その弊害というものはあまりにも大きい。
戦争とか民族紛争とか国家とか宗教問題とか…そういう大きな対象だけではなくて、もっと日常的で、新聞の社会面やテレビのワイドショーなどでよく見たり聞いたりしそうなこと、ーたとえば汚職や公害などで問題になった企業の従業員の子供が学校でいじめられるとか。そういうことに関連すると思う。人間は如何に集団に弱いか?しかし集団なしでは生きられないか?集団こそエゴを生み、そしてその集団が生存を担保するのである。そこにはある種のホンネが明確に現れる。キレイゴトで済ますことができない真理だ。だから人々は集団をつくり、集団に頼り、その集団を利用して自分の利益を拡大しようとするし、だからそれに反するものを集団の外側でも内側でも、それを「敵」として闘い、これを倒そうとする。集団は必要なものだが、同時に恐いもの。その集団がもつエネルギーを無視できないゆえに、集団の個性を「文化」として捉えていくことが大事になる。人間にとって必要だが恐い存在でもある「集団」、それだからこそ、集団というものがもつ特徴を把握し、それが個人を圧殺しないようにしなければならない。それだから異文化間…このそれは集団間といってもいいかもしれないが…における接触、ふれあい、関わり、ということが大切になる。集団間の特徴を知り理解しあうための交流などは大事でもちろんそれを否定しないが、そのときに大切なのは、じっさいに触れ合う人と人の関係は、これは「個人」であるということだと思う。集団の特徴から個人をみるのではなく、その人という「個人」に触れて、その個人が「集団の特徴的な」ものをもっていると考えるのだ。