「かかわり」と個人そして集団

ウクライナとロシアの戦争に民族と歴史の問題があることはたしかだろう。その詳しいことを自分は知らない。現在のロシアもウクライナも、モンゴルの支配から自立していき、そこに紆余曲折の変遷を経て結果、帝政のロシアその後は最終的にソ連に組み込まれ、ソ連の崩壊後に基本的に現在のウクライナとして独立国になったのであろうと思うくらいである。ソ連時代に連邦を構成するウクライナ共和国であったが、しかし完全な独立国となったのはやはりソ連が崩壊してからだといえよう。しかしこういったことは、ウクライナとロシアのあいだでは、長い歴史のなかで、そんな簡単に言い切れないほどのさまざまの確執を経てきたものなのだと思う。たしかにソ連崩壊後にはウクライナ共和国という固有名詞はそれ以前に比べたら、いちおうの主権国家であるという認識はもっていたかもしれない。しかしそれまでの歴史上でのイメージは、漠然とロシアの一部あるいは旧ソ連の一部という意識から免れていなかった。それゆえ、両国家間の、さらに民族間のことに関して、そこにとてもひと言では言えない、さまざまなことがあったであろう、そしていまもなお多くの課題を抱えているのであろう、ということを思うぐらいである。
しかし民族的、歴史的、あるいは文化的な問題というのは、つくづく大きな深い複雑なものごとを抱えているのであろうことは、おそらくたしかなのだとは思う。
民族とは何か?ということを自分は答えることはできない。自分は日本人あるいは日本国民とは思っても、日本民族ということは、あまり実感をもつことはできない。日本語を話す、日本国籍である、日本に生まれ育った…そういう認識はあるが、だから日本「民族」かどうかは、そうなのだろう…と思う程度だ。それを民族というなら、民族なのだろう。
しかし世界では民族というのは、とても大きな意味をもっているのであろうということは事実だ。民族というものが、とても強い結びつきや感覚をもった集団なのだということは解る気がする。他民族との関わりは、「異なる」「集団」の関わりだ。個人と個人のあいだでの関わりでさえ難しいことがたくさんある。それが「違う」集団という、複数の膨大な数の人々が「異質」という前提で、どれだけ困難なことがあるかと思うと、それは自分などには想像の枠さえ超えることだ。
たったひとつ、ー少なくともいまの段階でー、自分が思うのは、個人を理解しようと思うときに、民族のことを参考にすることが必要なことはたしかだと思う。だが逆に、民族を通して個人をみることは、どうなのだろうかと思う。もちろんこういうことを一概にいうことはできない。それでも根本は、個人なのだと思う。
ウクライナとロシアの問題は、残念ながらまだ続くであろう。現に続いている戦争のことはもちろん、過去のことから未来まで、それは簡単にどうにかなることでない。
これから更に民族や文化の「異なる」こと、人々とのことは重要になっていく。しかし関わるというのは、「異なる」ことや人々とのことだからこそ、それが必要で大切なのだといえる。苦手な人、難しい問題、それらに「ふれる」ことが「ふれあい」なのであり、それは個人でも同じだ。今後ほんとうに異なる民族、異なる文化、等々に関わることが重要になる。集団の基本は、個人である。ふれあいの本質は「異質との付き合い」である。困難を伴うことは避けられないだろうが、それを為していくことが共存の社会をつくるための具体的な行為なのだと思う。