プーチンの挑発に乗るな

プーチンを批判するのはいい。だが、プーチンの挑発的な言動に乗せられて、NATO軍は決して参戦してはならない。それはプーチンの思う壷である。一見、強力なNATO軍が参戦すれば、ただでさえウクライナで予想以上の苦戦をしているロシアは決定的に窮地に追いやられるように思われるだろう。たしかに窮地に追い詰められるだろう。しかし、それはプーチンにとって「願ってもない」ことになる。現在のところ、ロシアはウクライナとの戦争に対して、必ずしも「一枚岩」ではない。プーチン離れの現象もめだつ。ロシアの国家と国民は、ひとつになっていないのだ。だがこれが自国存亡の危機となれば、おそらく国民は、国家と一体になって「祖国防衛」のために、一丸(いちがん)となって戦うであろう。そういうときのロシアは強い。ナポレオン戦争も、ロシア革命時のときのシベリア出兵のときも、そしてヒトラーとの独ソ戦のときも。「祖国ロシアの危機」を感じたときのロシア人は、指導者も民衆も、身分や立場を超えて、「郷土ロシア」のために必死に戦う。それは民族愛ではあるが、ナショナリズムではない。集団としてのロシア人とロシアの土地、それが結びついて「ロシア」という共同体のような存在になる。それは巨大な家族や村のような存在なのだと思う。民衆と土地と生活が結びついて、これにロシア(ルーシ)という名称がつき、それらを含めてロシアはその全体で、ロシア「民族」となる。そのロシア民族は、完全に「ロシア=私」になる。ロシアという全体の概念と「私」「自分」という「個人」が完全合致している。そこに「あなたにとって、個人と集団はどう関わるのか?」とか「あなたにとってロシアとは何か?」という問いは意味をなさない。それは名前や言い方の違いだけであって、事実上は同じだからだ。しかもそれは意識的なものではなくて、もちろん意図的なものでもなく、作為もない。そこには「愛国心」だの「愛郷心」だのという概念はない。キリスト教徒か異教徒か、スラブ人かトルコ人か、ロシア民族かコサックか、…それらはないか、あってもたんに単語や名称の違いにすぎない。矛盾と混沌があたりまえに共存し、裏切りと誠実、粗暴と繊細、冷酷と慈悲、それらのものが、なんの疑問も問題もなく内包されている。そのロシアが外敵からの危機感を感じたとき、ロシアはそれに対して、無心に戦う。
ロシアを追い詰めれば、必ずその何倍ものしっぺ返しがくるだろう。今回のこのウクライナ=ロシアの戦争では、そのことを考えておいたほうがいい。