国家の変容

僕は、人々が基本的に、あまり政治に関心を持たなくてもいい状況なのが、良い社会だと思っている。

多くの人々が政治に煩わされる世の中、いやでも政治を考えざるを得ない社会、それは良くないと思う。政治が必要悪なことは判るが、あくまで必要「悪」であり、無いにこしたことはないと思う。少なくとも、絶えず政治に多く影響を受ける、少なくともそのように感ぜざる得ない国の人々は、僕は不幸な人々だと思う。当のその人々が、どう思っているかはまたべつにしても。

ウクライナの戦争で浮かび上がってきたのは、その役割を小さくしてくる傾向にあった国家という存在が、再び力を持ってこようとしていることだ。

ロシアのことはもちろんだが、アメリカや中国にしろ、あるいはインドのようなかつては第三国とか第三世界と言われてきた国々が、昨今のように大国化を目立たせている。

EUに象徴されるように、冷戦後の世界は、基本的に主権国家がその部分的な権限を国際機構に移譲していく傾向にある。国家主権万能の世界は、次第に時代遅れになってきている。

国際法と国際機構を軸に、人道に最大限の配慮をした世界を、地域や国家を超えて広がっていくべき時代なのだと思う。

なにも一足跳びに世界政府などを求めてはいない。昔から世界政府や世界連邦などの理想はあるが、はじめからそういった政治形態を求めることには無理や不自然が生じると思う。

同時に、とくに日本では地方分権論が人気があるようだが、形式や制度だけにこだわって「集権国家」か「分権国家」かといった議論は、なにか本来の視点を間違えている気がする。

本来、世界も国家も地方もないと思う。

地方とか分権論とか連邦国家とか…そういうものは、本来は結果として顕れるのだと思う。国家だ地方だ中央だ分権だと…そういうことに必要以上にこだわることそれじたいが、すでに政治的であり、権力的であって、形式主義だと思う。

財政や収税のシステムのことなどはあるだろう。しかし、できるだけのことは、その地域ごとで、しぜんな無理の少ない方法で社会を成り立たせていくのがいいはずだ。

その地域に根ざした自治のようなものが発生・発達していき、同時に、既成の国家や権威や軍事的なことなどは縮小していく。人道・人権に基本を置いた、最小限の、しかし最重要な決まりや制度だけを、国際社会共通の認識になっていく…時間をかけてもそういう方向に進むべきだろう。