「わかっている」こと

たいていは「わかっている」ことが出来ない。わかっていることが出来ていれば、個人の人生も、集団としての世の中も、いまよりも、はるかに良くなっていると思う。

だから自覚することは、「わかっていてもできない」のが人間だということを知ることだ。つまり「あきらめる」ことだ。あきらめて希望をもつことだ。

「どうして、こんなことが出来ないんだ?!」「なぜ、こんなことが判らないのだろう?」で怒るのはやめたほうがいい。やれれば、とっくにしている。ーー自分自身のことを考えればすぐわかる。ひとのことも世の中のことも同じだ。

「わかっていても」しないのは、できないのは、しようとしないのは、やめないのは、しようと思ってもなかなかできないのはーー人間だからだ。それが人間の全てとは言わない。だが人間の性質の多くを語ってはいる。

人間は、バカバカしいことを、たくさんしている。それが必要だからだ。しかし本当は必要ではなくなったことでも、惰性と習慣で、やり続けているものもある。それに気がつくには時間がいる。そして気づいたからすぐに変わるわけでもない。めんどくさいし、疲れるし、大変だし、努力せねばならないし、わざわざ苦労はしたくないからだ。

「話は、わかった」「たしかにそれは必要なことだろう」というとき、必ずというほど、こういうことが言われる。「だがなぜ私がそれをしなければならないのか?」、「そのために、なぜ私たちが犠牲にならねばならないのだ!?」、「なぜそれが自分でなければならないのだ?」、と。

誰かが、やってくれるのを待っている。それではいけない、という人もいる。そうかもしれない。たぶん、そうなのだろう。

やる人はやる。やらないからといって、責めることでもなければ、責められることでもない。

人間は怠惰な生き物なのだ。これだけ文明を築いたのに。