道徳のバカらしさ

道徳とか倫理などというものは、すべて「力」で決まり、動かされる。そう思わなくても、結果的には、しぜんとそうなっていくのだ。
道徳の、たぶん古今東西で基本的には殆ど変わらないと思うが、要になる部分は、そんなに多くはないし、複雑でもないと思う。
道徳的な中心のものは、「がまん」することが「良い」とする考えと、その反対に「がまん」を「しなくていい」さらには進んで、へたに「がまん」を「しないほうがいい」という考え。この「がまん」を似たような例の用い方として「頑張る」「努力」などを加えてもいい。要するに、「がまん」「忍耐」「頑張り」「努力」さらに「まじめ」「勤勉」というように、ひと言でいって「苦労」というものを、肯定するかどうか?に焦点はある。
ふつう素直に考えて、苦労せずに生きられたら、それがいちばんいいのだと思う。ではなぜその苦労を肯定的にとらえるような考え方が、人間や社会のなかにあるのだろうか?それも、かなり根強い感覚で…結論を言えば、「苦難に耐えられるように」とか「苦難を乗り越えて幸せになれるように」…といった理由だと思う。
要するに、残念ながら人生というのは苦労の連続のようなものだから、「どんな困難にも屈せず、頑張り抜いて幸せを勝ち取る」…といったことが必要と思われ、それが肯定的に扱われ、そのような生き方、そしてそういった人々のための社会を肯定的にとらえ、それはひとつの価値、社会的「価値」になる。
しかし、もうひとつの考え方、生き方もあり、これが歴史的に民族的に、あるいは世界の文化の多様性などからみて、いまどういう位置付けをしているかまで判らないが…いわゆる前記のような「がまん」することが偉いといった価値観、苦労をすることは大切だ、といった感覚。ーーそれと真逆に「がまんしなくていい」「頑張らない」「努力せずにすむなら、そのほうがいい」「できるだけ苦労は避けたい」…といった生き方、人生観、考え方であり、社会もそのような価値観を肯定してきているということだ。世の中の全体、世界的にどうか、といったら明確な答えは出せないが、ただ大きな方向性としては確実に後者の考え方、すくなくても、「あまり無理をしないほうがいい」「必要以上に努力しなくてもいい」「がまんすることが偉いわけではない」「苦労せずにすむなら、それにこしたことはない」…という、こちらのほうの考えに傾きつつあると思う。
簡単に言い切ることはできないが、「苦しくなったとき」に耐えるためとか「失敗をした場合」にどう対処していけるか、とかの「マイナス的」な場合の耐性や耐久力を考えるよりもーーそれを考えることやそのために準備や訓練などをすることが、いけない、無駄だ、というわけではないがーーしかし、まず基本的には「明日のことより今日のこと」「未来の備えより現在の幸福」…ではないかということだ。
「頑張る」必要性や素晴らしさはある。ただ同時に「むやみに頑張る必要はない」「ただ頑張ればいいというわけではない」ーーその考え方も必要になってきている、ということだ。
道徳も変化する。