愛と本能

愛と本能の違いは判らない。たぶん愛と呼ばれているものは、生物としての何かなのであろう。「何か」であるに決まっている。それを具体的に指摘できなければ仕方ないと思うが、具体的に指摘したり説明したりできないのだから、やはり仕方ない。そこに自分の能力の低さと限界を感じる。でもそれが事実で現実だから仕方ない。

しかしそれでもとにかく本能のなかで、人間が「良いもの」として肯定的に認識される、その最大のものの、少なくともその代表的なことの1つが「愛」という言語で表現されていることは、まず間違いはないと思う。

僕は広い意味での愛はまたべつにして、狭い意味での愛をアガペイとしてとらえる。もちろんアガペイ以外の愛また愛と一般に認識されていることに対して、もちろん否定的な考えは持たないし、それどころか多くの種類の愛が交錯し合いながらアガペイも在るのだと思う。

それでもアガペイは、ひときわ心をうつ。僕はクリスチャンではなく、また他の特定の宗教も信じていない。ただそれでもアガペイというものは素晴らしいと思う。僕にはアガペイまたはアガペイ的な愛は無い。自分にはそれが無く出来ないことは判りながら、でもアガペイは良いと思うから、ただそれを素直に良いと思う。

世の中にはさまざまな言語があるのだろうが、僕の乏しい知識のなかでは、英語のラヴLOVEは、かなりアガペイに近い感覚のような気がする。もちろんラヴにはアガペイ以外の多様な意味やニュアンスがある。それでもラヴという単語にこめられた想いには、アガペイに限りなく近い吸引力を感じざるをえない。