個性は幻想

個性というものは無い。それは個性という観念を必要とする者が作り上げた幻想だ。人間は自分が生きやすいことを望むから、それの邪魔になるものは排除したくなるし、逆に自分に都合がいいことは肯定する。じつはそれだけのことなのだが、それだけだと格好がつかないし名目も乏しいので、それでそれで「もっともらしい」理由を考えて、それを「個性」と呼んでいるのだ。人間はみな同質だ。ただ欲求の反応の仕方が違っているだけに過ぎない。反応の違いは、個体が生まれるときの環境と生まれたあとの環境によって、いろいろだろう。どちらにしろ環境の違いだけなのだが、その多様性のことを個性といえばいえる。
だから個性といわれるものは消すことは不可能だ。不可能なのにそれをしようとすると無理が生じる。それが全体主義とか管理社会などといわれるものだ。素朴で本能的に生きる世の中なら、そんな無理をしたりはしない。
価値はいけない。価値などないが、求めるから価値が生まれる。本能だけで生きられたらいちばんいいのだと思うが。人間は本能をこえたものまで欲しがる傾向がある。ふつうそれを欲望とよぶが、これは価値を求めたがる。それは「対」人や「対」社会といった「対」環境に求めることからきている。これが破壊をもたらし世の中に災いをよぶ。もちろん自身をも不幸にしていく。
ようするに「良く思われたい」とか「ほめられたい」とかいう欲求が不幸をもたらす。評価を気にせずに生きられるようになること、そういう人が世の中で大半を占めるようになること。それが住みやすい社会だと思う。そこには個性はない。言い方をかえれば、個性は必要ないのだ。「没個性」などといったネガティブな言い方でなくて、あるいは「個性の抑圧」といった反発や対立のとらえ方でもなく、「個性」といわれるものが「とくに必要でない社会」、それが住みやすいというのだ。
本能に個性はいらない。