「できない」と可能性

これまでの社会常識の価値観が、個人のさまざまな能力の「できる」を良いことで肯定的にみてきたことに対して、これからの世の中は、「できない」ことに対しても、それが決して悪いこと否定的なことではなく、それはそれで一向にかまわない、という肯定的な価値観と認識が必要になってくる、そう思っている。

ここでいう能力とは、人間のもつ、それが肯定的に認識されるあらゆることをいう。

仕事の能力は、いちばん分かりやすい。知識や技術や、身体的な力や体力あるいはそれらに大きく関連する健康も、それらを含めて能力と認識することも、それほど難しいことではないだろう。またさらに、人間の容姿・外見などの外観的なこと、ふつうに言うところの美男・美女と言われることも、また広い意味で能力に含めてもよいと考える。もっとも容姿の好みは個人差が大きく主観的なことだというのは否定できない。しかし、その時代のその民族や国民における、一般的、多数派の求める容姿というものがあるという事実は否定することができないであろう。顔の容貌や身体のスタイルやバランスなどに対する好みは、その文化的また社会経済的な影響を大きく受けるという前提を含めて、しかし容姿が1つの能力として大きな意味をもっていることは、否定できない事実ではないだろうか。

そしてある意味で、これが最も考えていかなければならないと思うことが、性格・人格・人柄・人間性などと言われることに対して、どう考えていくべきかという課題、問題である。広い意味での精神的なことに対して、である。

精神医学上で、病気や障害と明確に定められたことに対しては分かりやすいかもしれない。だが、それ以外の、いわゆる健常・健康と思われている人の場合はどうであろうか?

精神面、人格など、パーソン・パーソナル等々の部分に関しては、それが肯定的にとられていることの場合はいいとして(じつはそれに対しても深くみれば一面的な認識は危険なのだが、それはここでは置く)、とくに問題になるのは、一般に否定的に思われることに関してだ。すぐにカッとなり怒鳴ったり暴力を振るう、落ち着きがなく常にイライラする、ひとの話を聞かず自分のことだけを話す、興味のないことには全く関心をしめさない。こういったことに対しては、現在では医学的にもある程度は診断がされる場合も多いかもしれない。

だが、もっとふつうに、「忍耐力が不足している」「同じ間違いを繰り返す」「思考力が乏しく、とくに分析力や反省力に乏しい」「協調性がない」「頑張れない」「努力する力がない」…等々に関しては、これまでは、もっぱら、「わがまま」「甘え」「依存」「いいかげん」「無責任」「自分勝手」…等々、それらは一方的に「悪いこと」であり、それは本人の問題であり、というように、もっぱら「悪」「否定的なこと」であり、またそれは「個人の責任」とされてきた。

これらは基本に「みんな、そうしている」「誰でもやっていること」…といった「そんなはずはない」「自分だって、そういうときに頑張ってきた」「もっと大変な苦労をしたのに頑張って努力して乗り越えた人がいる」…こういった例や価値観からくるものが大変に多い。

以上のような常識的な気持ちや社会認識は、もちろん、それはふつうにわかる。ただ、そこには「人間はみな同じ」という思い込みが大きく、同じ人間でも、そのひとによって「相当に大きな差や違いがある」という認識の不足がある。「できる」「できない」は、精神面やパーソナルなことを含めて、一般に想像されている以上に大きなことなのだと思う。

本当の多様性を認められる世界とは、「個性が常識化」をしていく方向性をめざすような世の中のことだと思う。個人のもつ性質の違い「個性」が、社会の多数派や一般的に認知をされている価値観やイメージ、つまり「常識」と、摩擦や戸惑いを含めながらも、それが互いに「接近」をしていくことが大切なのだと思う。

それでは、「できない」を、すべて必ず、まったく放置するだけでいいのか?「努力して改善していくことが人間の尊厳ではないのか?」「努力や向上心によって、人類は進歩をしてきたのではないのか?」…等々これらの主張や認識に対しても、べつに否定するわけではない。もちろん否定はしないが、ただそれは、これまで記述してきたように、「できない」ということを、これまでよりも、もっと積極的な意味で肯定的に認識して、それを前提としての社会の在り方を前提にしていくべきだということだ。「努力」「頑張り」「向上心」それらが良いことであるのは当然だ。問題は、そのことと「できない」を対立的に見たり、優劣のような比較では考えない、ということだ。「できない」人がいる。「努力して、できるようになった人がいる」。べつに両方を肯定すればよいのではないだろうか。そして、同じ「できない」が「できる」になったにせよ、「努力」にせよ、それらがその当人ひとりだけでするとは限らない、ということだ。周囲の人や、さまざまの人々の協力や関わりを含めての「努力」であろう。

いずれにせよ、「できない」に対する価値観の転換が必要なことはたしかである。「できない」も「できる」も肯定する。「できるようになった」も、「できないまま」も、ともに肯定する。「努力」を肯定して、かといって「努力しない人」のことを否定しない。「本当に、できない」と「できるのに、やらない」を、安易に判断したり決めつけない。「本当は出来るくせに、ずるくて怠慢なために、出来ないフリをしているだけだ」という見解は、たしかに、もっともで解る。しかし、それさえも、そのような性格や思考の在り方そのものが、その人のもつ限界であり、先述のようなことを含めての「その人のもつ能力の限界である」ということさえも、言えるかもしれない。

たしかに難しい課題ではある。しかしこの「できない」ことを、少なくとも現在までよりは肯定的に理解と認識をしていくことが、これからの多様性を認める共生の世界のために必要なことは確かだと思う。