思想を語るのは暇人

思想を語る者は必ず暇人だ。その内容や役割や影響力のことに関わらず、それを考え、興味をもち、語り主張する者は暇人だ。暇人だから悪いといっているのではない。暇人という事実を言っているのだ。
ほんとうに有意義なことをしている人は、忙しくて思想などにかまっていられない。それだけ有能で働き者だということだ。仕事に思想はいらない。実務に思想は邪魔だ。真剣そのものの日常に思想の入り込む余地はない。
このように暇人が知ったかぶりと虚栄と優越的エリート意識にかられて、何か尤もらしい偉そうなことを思い発言したりするのが思想だ。愚かしいことこの上ない。
そのようにくだらないことだからこそ思想は、尊ばれるような、崇められるような、そういう虚飾と虚像を生み出す。ただ、暇人の産物ゆえに思想は、余裕のない普通の、とくに仕事なり生活なりにギリギリのところで生きている人たちには、なかなか解りづらいことを整理することが可能だというものを参考にしたり利用したり、またときには夢中になる、すくなくとも「いつも忙しすぎる」人たちに休息と希望を与えることも多々ある。おそらく、それが思想の唯一の価値かもしれない。