経済学は信仰だ

経済学は、ひとつのそれぞれの学者や学派の信仰だ。正しさや真理よりも、それを信じるか信じないか?につきる。物価や賃金、株価や利率、そういった比較的に数字や物量などで計り得ることは、まだいい。それなりの客観性も否定はできない。しかし、人々が今後どのようなモノを欲しがるか、逆に今まで欲していたモノを欲しくなくなるか?購入の方法は、手段は、キャッシュかローンか通販か引き落としか、これ以上の負債に耐えられるか?ーー収入や賃金といっても、正規・非正規の仕事か、転職すべきか?ーー何ひとつとして解らないし、解るわけがないのだ。
ましてそれに、貿易や為替の変動、紛争やテロや政変などの政治的、国際的な問題から、突然のインフレや世界恐慌のようなことまで…何も解らないのだ。新発明・新商品、思わぬ災害、まして人々の意識や感覚、突然のようなブームと急激に終わる流行…
ほかのこともそうかもしれないが、経済も例に漏れず、まったくといっていいほど未知のものだ。
さまざまな統計などの情報や資料をもって、経済学は、それらしい説明をして理論を組み立てる。しかしそれらはすべて、事実や真理の「一部」であって、決して「すべて」ではない。だから経済学を、そこで述べられる説明や証明や数値や理屈などは、けっきょくは「信じるか」否か、という結論なのだ。
もちろん、どう信じても信じなくても自由であることは前提だ。
経済学とは、一種の信仰である。