時代と社会の転換点に

ずっと昔から戦争はおこなわれている。独裁者による抑圧も、世の中にある差別も、民族や宗教の紛争も、経済の仕組みが生む貧困も、そしてそれらのことによってもたらされる飢餓と暴力や難民の流出もーーこれらのことは、なにも今回のウクライナに関して生じる以前から、人間の歴史のなかでずっとおこなわれ続けている。
ただ、今回のウクライナとロシアとの戦争がこれほどメディアを含めて世界を揺るがせているにもかかわらず、その報道の仕方と国際社会の在り方は、依然として変化に乏しい。
旧態依然とした、相変わらずの「力による解決」である。軍縮民主化、国際交流や多様性の社会や文化の可能性など、それまで言われていた理性と愛と人権の思想や運動や潮流や人々の希望は…どこに行ってしまったのだろうか?それらはたんに言葉やイメージだけのキレイゴトだったのだろうか?
理不尽なロシアの侵略に勇敢に抵抗するウクライナを支援することは当然だろう。ロシアの軍やプーチン大統領に対して戦争犯罪の問題を訴えるのも、国際的な正義をなすためには必要なことなのかもしれない。経済制裁も、ロシアの侵略を弱めさせるためには必要なことなのであろう。それらはいいとしよう。
しかしマスメディアやSNSなど、メディアの報道のその大半の姿勢は、以前と同じに、相変わらず「力による」ものごとの解決や政策、安全保障や核抑止力など、「力の肯定」から免れていない。それは、たとえプーチンに対抗するためであっても、安全や平和を守るためという名目や理由を付けてもーーそれはけっきょく暴力と権力に依存する「力による解決」「力の優劣」「力の支配」でしかない。
目や耳にする情報や報道は、戦車や軍艦や軍用機などの兵器で溢れている。軍事同盟やNATOの拡大の話でもちきりだ。核兵器の必要性だの核の共有だの核抑止力だの、もっともらしい理屈を付けて結局は核兵器を肯定しているではないか。
力の行使、力による解決、ーー武器や権力や暴力による社会は、決して真に平和な世界を築かない。たとえロシアやプーチンのしていることがひどいことであっても、もう「力への依存」は、やめてもらいたい。