核兵器使用の想定を伝えるワイドショーに複雑な気持

あるワイドショーでロシアが核兵器を使用した場合の想定について話されていた。
手詰まりになったロシアが戦略的に核使用になった場合どういう状況が想定できるかということで、そのワイドショーでは核使用になればけっきょく全面核戦争、すくなくとも一定の核の報復合戦につながり、それは避けなければならないという結論だった。良識的な解説と想定であり、それはその通りだと思う。ただ自分は、それとはべつに、なにか奇妙な複雑な感覚にならざるを得ない気持になった。
核兵器の問題と恐怖に対しては、冷戦期からずっと語られ続けてきた。いつから冷戦が始まったかということは議論があるかもしれないが、常識的には約40年間ぐらいだったと思う。1回でも核兵器を使えば、連鎖反応的に全面核戦争になり人類は滅亡する。これが当時が常識であり、それは子供でも例えば小学校の高学年ぐらいの生徒であれば知っていて普通のことだった。
少年雑誌など子供向けの雑誌などでさえ、世界が所有している核兵器をすべて使えば、人類が何回滅ぶとか数百回も滅亡するとかいうことが書かれていた。正確なことは憶えてはいないし、また正確な数字などは出しようもないと思う。しかし問題はそれよりも、1回でも滅亡してしまったら、それ以上の数字などは関係がない、ということだ。それが何回か何百回か、ではない。それがたとえ数百回が数百万回であったとしても、それに意味はない。1回滅亡したら、そのあとはないのである。それは子供でも判る理屈だった。それにも関わらず、人間は核兵器を作り続け、核実験が繰り返しおこなわれた。ー-そこに人間の愚かさと、矛盾と、政治というものの複雑さを、子供ながらに、何かを感じ、解らないながらも考えなければならないということを感じたのだ。
同時に冷戦期には、テレビで毎日のようにベトナム戦争の惨状が伝えられていた。政治的なことは解らずとも、連日のようにB52爆撃機により爆弾が投下され、地上戦でも民間人が虐殺される場面が写された。ナパーム弾の炎から逃げる人々の姿があった。
ひとつの面で人類を複数回滅亡することができる核兵器の存在。もう1面で核兵器は使われなかったものの、それ以外の方法で徹底して残酷な行為がおこなわれた現実の戦争。
そこに思われた感情は、核の恐怖と、平和の訴えだった。どんな理由や困難があろうと、そこで叫ばれたものは、非戦の声だった。
それでワイドショーで語られた核兵器使用の可能性に関しての問題は、それが大事なテーマであり必要な説明であることは判る。番組の方向性も、絶対に核を使ってはならないということが主張されていた。
それにも関わらず、こういう問題が語られねばならないということじたいに異常さ、異様なものを感じる。それはたしかに現実の問題に対応するために必要なことだ。しかし、それが問題や議題として語られねばならないということーーそれじたいが恐怖なのだ。それだけ問題は、たんに架空の想定を超えて「現実」のことになりつつあるということだ。
核を絶対に使ってはいけないことは、言うまでもない。それは現実にロシア側が使用する危険が大きいということは事実であろう。ロシアに絶対に核兵器使用をさせてはならない。同時に、もちろんロシア以外の国々なども核兵器使用をしてはならない。自衛とか攻撃とか、核兵器使用の種類とか規模とか、あるいは報復とか抑止とかー-そういう名目や理由をいっさい問わず、「核兵器使用は絶対にいけない」と叫ばねばならない。そして、すこしでも早く戦争をやめなければならない。一刻も早い停戦、休戦を求める。
いっさいのわだかまりを捨て、即時停戦せよ!