テロ報道の難しさ

ナイジェリアのテロ報道で日本のメディアが扱いが小さいこと、また内容がイスラム過激派(おそらくいわゆるIS)によるキリスト教徒への攻撃であること…それらの報道が不完全ではないかということは、たぶんその通りかと思う。できるだけ事実の確認と適正な報道がメディアの役割であることは当然だと思う。
その前提で、イスラム過激派のテロを事実に立脚してきちんと報道をすべきであることは当然として、同時にその扱い方で報道の規模を必要内にとどめる、ーーこの場合の必要内は具体的にどこまで何を伝えるかという、そこには主観的な判断が大きくなるとは思うがーー事件のおきた場所と時間、被害などの規模、犯人の見当…おおよそ、そこまでぐらいで、適切かと思う。
日本のメディアには、報道の仕方において、想像だが「ISなどイスラム過激派のテロを報道はするが、しかしそれによってイスラムの人々が差別や迫害を受けることを恐れる。それで報道はするが、内容と程度において自重するようにしている」…といったことではないかと思う。
一方で、とくに欧米諸国や広く西洋と見られているところでは、白人・キリスト教徒による非白人・非キリスト教徒に対するテロや差別に対しての報道は徹底する傾向があるかもしれない。もちろんテロや暴力という行動そのものに対しては、あくまでも否定の立場に立っていると思う。ただ、そのこととは別の問題として、加害者側…この場合はとくにテログループとか、特定の宗教・人種など…それが白人・キリスト教徒である場合は、それが既にその社会のなかで「多数派・強者」の立場だということだ。既にマジョリティのグループのなかの或る集団なり個人なりが、そういったテロ行為をしたとして、もちろんそれじたいは暴力行為として批判されるだろう。しかしテロをおこなった犯人の属する集団は、この場合たとえば、それは「白人」という人種的な多数派にいる。宗教においても「キリスト教徒」という多数派である。だからテロや差別が認められているわけではもちろんない。しかし、これは乱暴な言い方だが、ある意味「テロや差別がありうる」という前提があることもたしかなのだと思う。ゆえに白人・キリスト教徒による、非白人・非キリスト教徒に対するテロや暴力行為あきらかな差別、等々を報道するにあたっては、それを徹底して追及していくことが必要になる。
日本メディアは、おそらくーーあくまで推測だがーーおそらく、差別に対して厳しく追及し、また弱い立場の個人なり集団なり、いわゆる弱者にたいする保護ということ…これらを考慮しているのではないかと思う。