海外にいるロシア人の人権

海外にいるロシア人が嫌がらせを受けていると聞く。これは戦争になると必ずといっていいほど起きる現象で、これは人権の基本理念が問われる最も大きな指標である。
ロシアは人権が抑圧されている国だと言われる。その内容や程度がどうであるかは明確には判らないが、しかしそれが一定以上の事実と思われるのは、さまざまなメディアの情報から、それなりの信憑性があるものと思われる。
アメリカなどいわゆる西側諸国の社会は、例えば中国のチベットウイグルに対して、あるいはミャンマー少数民族のこと、そしてまたロシア国内の抑圧的な政治に対して、否定的な態度をとったり批判したりする。それはいい。国家や民族を超えて尊重されるのが人権であり、これは内政干渉とはべつの次元で論じられる「超」政治的、「超」法規的な、普遍の理念であり、それが正義の実現である。それが実際には、政治的な駆け引きや実質的な権力闘争や覇権争い等に利用されることがあってもー、そしてそれはそのように利用されることが多いがー、しかしそれでも、人権の普遍性を主張していくことは素晴らしい。
その人権の普遍性が最も大きく問われる具体的な場面が、戦争が起きたときの、いわゆる「敵国民」あるいは直接には交戦国の国民でなくても、今回のように侵略をしているロシアやその指導者であるプーチン大統領に対して批判の声があがるのはいい。しかしロシアの外にいる、なんらかの理由でロシア以外にいるロシア人・ロシア国民・あるいはロシア系の人々を「敵」として、差別的、抑圧的に接し迫害することは、それこそ重大な人権の侵害そのものだ。仮にロシア国民がロシアの政府やプーチン政権を選んだとしても、それはロシア国民のすべてがそうしたわけではない。そしてもし仮に、そのロシア国民がプーチン政権を支持しているとしても、それはそのロシア国民の自由であり、「あなたはそんな政権を支持するのか?自分の国が侵略戦争をして、ウクライナの人々に責任を感じないのか?」というなら、それは1人ひとりの「その人」の問題であり、あくまでもその人が考えることだ。それは大切な問いかけであり、見つめていく必要のある問題だとは思う。しかしだからといって、ロシア人やロシア国民を糾弾するようなことは決してあってはならない。まして、先祖や血筋などから、ロシア系の移民や帰化国民など「ロシア系」の人々を差別や迫害することは、完全なる民族差別や人種差別に等しい。こうしたことは、特定の民族・血統・人種や肌の色・宗教・文化などによって、その人々を敵対視し、排斥しようとするものだ。それはとくに、戦争のときに露骨にあらわれる。普段から潜在している「弱い者」に対しての憎悪や嫌悪が、戦争になると「敵国人」「敵性国民」といった口実をつけて、その迫害行為に正当化の理由をつける。それによって、自身のもつコンプレックスや不満、妬みや攻撃性をぶつける。弱い立場の人々、とくに少数弱者の人々を標的とし、そこに鬱憤をぶつける。しかもそれを、自分が良いことをしていると思い、まわりにも思わせたがって、である。戦争は直接に人命を奪うことはもちろん、「少数弱者を迫害したい」という衝動に拍車をかけ、その感情を助長させる。
昔から戦争や政情不安や経済的な混乱など、社会が不安になり人々の生活が苦しくなるとユダヤ人が迫害されるということがある。普段からユダヤ人は偏見の目で見られることが少なくないが、混乱状況になるとそれが極端に激化することがみられた。その最も極端なものがナチズムでありホロコーストだ。9・11の同時多発テロのときには、アラブ系の人々やイスラムの人々が差別的に扱われることがあった。日本でも例えば、北朝鮮のミサイルの問題や日韓問題が生じると、在日の人々に嫌がらせをしたり脅迫したりということがある。日本人も太平洋戦争中に収容所に入れられたことがある。これらのことは、幾つかの事例にすぎず、まだまだ無数の、そういった差別、偏見、迫害がある。すべて不安と不満を少数弱者のせいにして、その人々を迫害することで鬱憤晴らしをし、正しいことをしたと思い込み、それによって問題解決をしたような気になっているという、御都合主義の解釈による自己満足の構図である。
戦争が起きないのがいちばんいい。それでも不幸にして戦争が起きてしまったら、少しでも早く戦争をやめることが大事だ。そしてしかし現に戦争が続いている段階では、戦争当事国であっても、また直接には参戦していない諸国にしても、自国内にいる交戦国の人々に対して、いっさいの差別・不公正をしないことが求められる。その人々を個人として接する。それが人権の原点である。