戦争から解る人間

戦争から解ることは、さまざまだろう。ウクライナとロシアのあいだでおこなわれている戦争についてもそれは言える。
あらためて戦争は、いかに「いい者」と「わる者」に分けたがるものだということが判った。まるで時代劇や、とくにかつての西部劇、そして特撮ヒーロー番組などに典型の構図だ。
ウクライナが「いい者」でロシアが「わる者」、これがいちばん分かりやすく多く用いられるイメージだ。だが、ロシアが「わる者」であるとして、ウクライナが「いい者」というのは、表現としては無理がある。
「わる者」以外は「いい者」だと考えれば、ウクライナを「いい者」に入れることも間違ってはいない。ただ、ふつうに考えれば、ウクライナは一般的な見方をすればロシアから侵略を受けている「被害国」であろう。
ウクライナを「いい者」か「被害国」かという論議はべつにしても、ロシアが「加害国」であることはたしかだろう。そしてそれを前提にして、それでは戦争・政治・外交といった国際社会や国際世論ということ、それと個々の国民や民族、文化、スポーツ、人権などのさまざまなことを、どこまでリンクして考えるのか?ということがある。
まずロシア以外の国や地域などにいるロシアの人々は、基本的に個人として接せられねばならない。たしかに戦時国際法などのことはあるだろう。その課題はあるとして、それは基本的に交戦国のあいだでのことだ。第三者的な国や地域や機関その他の集団などにおいては、原則「中立」であり、中立であるべきだろう。そこにあっては、ロシアの人々にたいしては、その人権を侵害しないことはもちろん、そういう危機的な状態では、積極的にロシアの人々の人権に配慮しなければならない。決してロシア「わる者」からロシア国民やロシア民族を「わる者の仲間」のような構図で考えたり扱ったりしてはならない。
パラリンピックのロシア不出場についても、本来は政治とスポーツを分けて考えねばならない。ただ、そこまでロシアの侵略に世界的に抗議するという意味では、それも必要で理解できるとして、しかしロシアの選手の個人参加は認められるべきだったと思う。
こういう状況になると、文化の面でも大きな影響が出るものだ。音楽や映画や文学などの芸術面にせよ、料理や衣装それに建築や家具などの小物類などに至るまで、そして言語であるロシア語ー、ロシア的なものに対しての拒否感覚が生まれやすくなる。そうならないことを願うし、またある程度はそれも悲しいが人間の感情や集団心理なのかもしれないが、そしていろいろ感じるのは勿論その人の自由だがーその上でのことであるーそういうときこそ、考えること、判断することを忘れないように努めることが大切なのだと思う。
日本にもウクライナの人々もロシアの人々もいる。その人々は、立場を異にしている。そこにデリカシーを持たねばならない。さまざまな立場の人々がいること。それぞれの立場を知ること。そして困難があることを前提にした上で、それでも、みなが少しでも、できるだけ住みやすく生きていけるような状態をめざすべきだと思う。