「無関係」が「排除」を生む

僕は「それは自分とは無関係」という意識が結果的には「排除」の思想と行動を生むのだと思う。
たとえば薬害エイズが問題になったとき、メディアも一般の人々も公的機関もーもちろん例外はあったが全般的にはー「一部の人達のこと」としてイメージされた。一般には「それは私たち普通の人間には関係がない」という前提があったと思う。「私たちは同性愛者ではない」「私たちは血友病患者ではない」。そして同時にエイズに対する必要以上の恐怖心と患者への偏見は強まっていった。
メディアでは次第に、たとえばお笑いのネタなどにエイズが使われた。そこにはエイズに対する漠然とした恐怖心と不安感を前提としながら、同時にそれを同性愛者に対する無知から「気持ちの悪い、よく解らない存在」とイメージされ、それは「同性愛者=気持ちの悪い人々」だから「笑いの対象にしてもよい」に結び付く。意識的にそう考えていないとしても、無意識のうちにそういった価値観のイメージが染み着いていく。
個人的な見解では、自分は、差別や偏見でも、お笑いのネタでもまたドラマなどでも、ありきたりの言い方だが「表現の自由」は、かけがえのない大切なものだと思う。現実にそれで明らかに不利益を受ける人がいると思われた場合に、一定の表現の制限や自重が求められることもやむを得ないとも思う。ただあくまでそれはやむを得ない緊急避難的な方法であり、それをもって、やみくもに表現を制限していくことがよいとは思わない。
たとえばエイズの問題の場合、基本「表現の自由」は前提であるが、そういった深刻でデリケートな課題が明らかな場合には、それがどのような理由でどういう結果を招くだろうかということを、テレビなどの関係者はきちんと考える意識と習慣が必要だと思う。次に、基本的には出来るだけ表現の自由そのものは守るようにしながら、しかし同時に、差別や偏見に対処するような報道や番組作りにも努力することだと思う。
エイズの問題に関しては、時間が経つに従って、同性愛者をはじめ性的感染者と血友病患者との違いや区別が、報道などメディアを含めて世間的にもクローズアップしてくる。薬害被害者の気持ちと生活に一定の希望がもたらされたことはたしかだが、同時にそこに血友病患者と性的感染者、性的マイノリティとの確執という複雑な感情も残ったであろう。もっとも昨今、性的マイノリティに対する考え方もだいぶ変わってきたかもしれないし、それはそれでいいことだと思うが。
ここで最初の「無関係」が「排除」につながるという問題に戻る。エイズ、同性愛者、血友病患者、薬害、という例を出したが、もちろん問題はこれらに限らない。差別、抑圧、暴力といった問題は基本にはみなこの「自分とは関係がない」からくる「排除」の論理と感情によって成り立っている。歴史的に典型なのはナチズムだろうが、ナチズムとは、ヒトラー筆頭にそれを権力の主体側からだけ行われた思想や運動だけではなく、むしろ重要な視点は、それを支持した多数の「一般の人々」の意識にあったと思う。ここで自分はドイツの民族性や国民論を述べるつもりはない。当時のドイツが経済的に大変な苦境にさらされていた事実も、第1次大戦の責任をドイツだけ押し付けた列強諸国の問題も承知の上でのことだ。
自分はナチズムのことは、ドイツ特有の現象だとは思わない。条件が似ていれば、どこの民族や国民でも起きたことだと思っている。その上で考える。
ヒトラーナチスも、基本は、何度も言うように「自分とは無関係」という意識と「排除」の思想と行動がその本質だと思う。ナチスはその集団であったし、ヒトラーはそのシンボルだった。しかし多くの人々がそれを求めなければ、いかにナチスが巧みな戦略を考えても、あるいは暴力的な行動をしても、また時の権力や財界と癒着したとしても、そしてヒトラーの演説が巧妙であっても…そこに人々が「それを求める気持ち」がなければ支持はされない。よく指摘されるように、ユダヤ人や共産主義者のことを「自分とは無関係」と思っていた人々が結果的には自分自身もナチスの迫害を受けることになった、という有名な教訓がある。それは確かに大切な指摘だ。それに加えて、ナチスの排除の思想は、根本に「ダメな者は邪魔だ」という考え方があった。ユダヤ人や共産主義者は、ナチにとっては積極的な敵とみなした。しかしそれだけでなく、ナチが敵対視したのは障害者など弱者、そして定職に就かないとか、今で言えばニート的であるとか、あるいは犯罪者または犯罪者すれすれで生きているような人々…それを「余計者、やっかい者、社会の負担」と考えることにあった。この現象は、障害者・性的マイノリティ・高齢化社会ニート・多発する犯罪・生涯の大半を刑務所で暮らす人々・ホームレス・移民・民族紛争…現在の状況と似ている。
ナチの有力者には、いわゆる「社会の落伍者・ドロップアウト的な人々」が多かった。その「脱落者」が権力に就くと、脱落者を排除した。ヒトラー自身が脱落組ではなかったか…ひとことで言おう。いわゆる「上から目線」をやめないかぎり、排除の社会は続く、と。水平の目線で自分と他者を見ていかなければ「自分はあの人たちとは違う」という排除の論理と現実はなくならない。