思春期前の1969年

1969年は、自分がおそらく思春期を迎える直前の頃だったのだと思う。それは性別というものが曖昧で、性別の認識はあっても、まだその意味がよく解らない時期だった。そして同時に、1969年は、2月頃から5月くらいまで、約3ヶ月半の入院をきっかけに、マンガ以外の本を夢中になって読み始めた年であった。
主にポプラ社のルパンとホームズ、少年探偵団、そして大人向けに書かれた江戸川乱歩の本を子供向けに書き直したいわゆるリライト版と言われるもの。この年には、ちょうど講談社から江戸川乱歩全集が刊行された。これは全て乱歩の大人向けの作品で、リライト版や少年探偵団のシリーズは入っていない。この1969年の終わり頃から翌1970年の初めにかけて、江戸川乱歩全集のうち幾冊かを読んでみたが、ジュニア向けのリライト版と比べても、あまり大きな違いがないことを知り少し驚いた経験がある。つまり乱歩の作品は、かなり読みやすいということだ。これは一般にもよく言われている有名なことだ。
リライト版という言葉を知ったのは比較的に最近のことだ。正確な説明は出来ないが、だいたいの意味は、本来は普通に書かれた小説などを子供向けに書き直したもの、ということくらいの意味らしい。とくにその作品を最初に書いた本来の著者ーいわゆる原著者ーではない、いわば他人が書き直した幼小年者を対象に書き直した小説のことなどを言うらしい。それは日本の作家のものもあれば外国の作品もある。それで僕が小学6年生の頃にそういったリライト版のとくに江戸川乱歩のそれを読んでいた頃、その中に「緑衣の鬼」という作品があった。それは夏だったが、ちょうどテレビで原爆記念日の前後くらいの時期だったのだろう、原爆の特集を放送していた。原爆関連の悲惨な写真などはそれ以前にも知ってはいたが、その日のテレビ放送の写真も焼けただれた死体や患者のケロイドなど、やはり正直とても怖いと感じた。しかもその番組のあとに、雷雨になった。夏でもあるし、それじたいはべつに普通のことなのだが、原爆の番組を見た直後だったので、雷の光や音が、まるで原爆を連想してしまうものように感じてしまい、それがまた怖さを倍加した。…そして、同時に僕は例の「緑衣の鬼」を読み続けていた。…その作品じたいは、乱歩の独特な不気味さや雰囲気はあったが、必ずしも特別に恐いものではないと思う。ただ、偶然だが、たまたまその日はテレビで原爆の悲惨な写真を見て、これもたまたま雷雨になったため、原爆・雷雨・「緑衣の鬼」…というキイワードのようなイメージが僕の中で重なってしまったーそんな感じだった。
それで、何はともあれ、その「緑衣の鬼」は内容も面白かったが、じつはそれよりも印象的だったのは、その本の表紙の絵だった。正面には何か驚いているような表情の少年の顔が描かれている。その背景には、この小説の主役である怪人である「緑衣の鬼」が描かれている。題名の「緑衣」の通り緑色の服を着ている。それだけでなくその男ー怪人は男性だがーは、その顔の全体が薄い緑色なのだ。髪の色も緑。その怪人がニヤリと不気味な笑美(えみ)をたたえて、片手には、これも緑色の短剣を握っている。
しかし更に「緑衣の鬼」の表紙絵で印象的だったのは、前記のような緑の怪人の、その背景が銀座の街であることだった。夜の銀座だが、上からやや俯瞰(ふかん)で見た感じで、銀座の全景に近い感じで描かれていた。もし興味がある方は、ポプラ社「緑衣の鬼」で検索をすると、その当時の本の表紙絵が見れるかもしれない。ーそれはともかくとしてー表紙絵で描かれた銀座は、たぶん現在と比べて、基本的にはそう大きな変化はないのだと思う。自分はべつに銀座を詳しいわけではないから、そんなに自信をもって言うつもりはないが、ある程度は今の銀座の概観に近い感覚だ。おそらくあの本の表紙絵が描かれたのは、今から半世紀以上も前だと思う。だとすると、銀座という街は、ほかの街に比べて、わりあいに変化が少ない街なのかもしれない。考えてみれば、1960年代はまだまだ高層ビルなどというものは殆どなかった。はっきりとは憶えていないが、47階建てだかの霞ヶ関ビルが、当時としては日本でいちばん高いビルだったと思う。それまでは10階以上のビルでさえ、どれくらいあったのだろうか…?という感じだった。その霞ヶ関ビルが建ったのが、おそらく1960年代の後半あたりではなかったかと思う。いったい何階建てから高層ビルというのか自分は知らないが、50階以上のビルが次々と建設されていくのは、おそらく1970年代以降であろう。もちろん都庁も今のツインタワーではなくて場所も新宿でなく有楽町だった。警視庁も昔のレンガ造りのような外観。スカイツリーなどもちろん無く、東京タワーがいちばん高い建造物だった(すくなくとも日本では)。
だから、その後に下町から東京郊外まで次々と高層ビルなどが建っていくなかで、あるいは再開発などがされていくなかで…銀座という街は、細部はもちろん変化しても、その全景はあまり大きな変化がなかったのかもしれない。ペコちゃんで有名な不二家があり、有名な時計台(服部時計店の和光ビル)は昔からあり、時計台のある場所が銀座4丁目で、その前を晴海通りの交差点があり、晴海通りを横切って向こう側からは銀座5丁目になる。
で…そんな、あまり大きな変化がないように思える銀座だが…例の「緑衣の鬼」の表紙絵を見ると、すくなくとも1点は現在とは違うことがわかる。ネオンサインの夜景が描かれているのだが、その中に、球体の広告塔がある。これは現在ではもう無い建物だ。じつは僕自身は、この建物を直接には見た記憶はない。あったかもしれないが、とにかく記憶には無い。テレビなどで懐かしい白黒の当時のフィルムの映像が流されると、かなりの割合でその建物が映される気がする。そういうフィルムは、たいていが下から見上げるように撮影をされている。そのほうが街の臨場感があるのだろう。僕はあれは
何の建物だろうと思っていたが、それは同時に「ああ、緑衣の鬼だ…」という記憶とが重なっていく。…のちに調べたら、それは「森永ミルクキャラメル」の広告塔だということが分かった。その建物は、取り壊されて今は無いそうだ。乱歩の「緑衣の鬼」の表紙絵には、自分にとってそんな思い出がある。
その「緑衣の鬼」、知っている人もいると思うが、これは外国の作品を下敷きにして江戸川乱歩が書き直した小説だ。べつに盗作ではなく、乱歩が原著者の許可を得て書いたものだ。大筋のところは原作を使って、それ以外の細かい部分は乱歩がかなり自由に書き変えている。こういうやり方を「翻案(ほんあん)小説・翻案(ほんあん)文学」というが、これは翻訳とは違う。翻訳は、あくまでも原作を忠実に、言語を訳したものだ。ーもっとも、著作権の切れた作品は、基本的に自由に使えるから、或る原作を下敷きにして現在では、多くの作品が、映画化・舞台化・テレビやラジオなどのドラマ化・アニメ化・マンガ化・ゲーム化…等々がされている。それらの中には、原作に忠実なものや原作通りではないとしても原作の主旨を変えないで造られるものもあるが、かなり大半は著者名と題名だけを明記して、あとは原作とは全く違うという作品も多い。江戸川乱歩自身の作品も、現在では名前とタイトルだけを借用した、原作とは全く異なるような作品は多い。原作とは殆ど関係なく明智小五郎や二十面相や小林少年が登場する。そのパロディのようなものもある。これはシャーロック・ホームズや怪盗ルパンでも同じようなことが言える。現にルパンと言えば、今の殆どの人は「ルパン三世」をイメージすると思う。
そういう現在の風潮や現象はさておき、その「緑衣の鬼」は外国の招待の翻案なのだが、個人的には乱歩の「緑衣の鬼」のほうが原作よりも面白い。僕は、これもポプラ社から出ていたものだと思うが、「緑衣の鬼」の読後から約1年経ったか経たないか、であったと思うが、翌1970年のいつ頃だったか、自分は中学に進学して間もない頃だったが、「赤毛の悪魔」という本を読んだ。やはり、いわゆるリライト版というものだったが、それを読んで「これ何かに似てみなあ」と思い、「ああ、緑衣の鬼だ」と思った記憶がある。その時にはまだ、ストーリーが似ているなと思うぐらいでそれ以上のことは考えなかった。その年の秋頃に自分は入院して、この入院は1年間余りの長期入院になった。その入院がきっかけでし、結果的にそれは僕が学校に通学した最後の頃ということになった。ーそれで、その1970年の秋に入院してしばらくして…入院後1ヶ月間くらい経ったのだろうか…とりあえず容態もいくらか落ち着き、僕は病室で江戸川乱歩全集の中の3冊を読んでいた。なぜかその時には小説ではなくて、評論集と乱歩の自伝のようなものを読んでいた。それらの中に、例の「緑衣の鬼」の執筆に関することが書かれていたのだ。乱歩はイーデン・フィルポッツという作家の「赤毛のレドメイン家」という作品を読んでとても感激して、原作者に問い合わせて許可を貰い、それを元にして「緑衣の鬼」を書いたことが記されていた。それを読んで僕は「ああ、やっぱり」「緑衣の鬼と赤毛の悪魔は似ていると思った」ということの理由がハッキリして納得した。ジュニア版では「赤毛の悪魔」と題名を変えていたが「赤毛のレドメイン家」のことなのだなと思った。じつはその本元のほうの「赤毛のレドメイン家」のほうは、原作をあまりしっかり読んだ記憶がない。おそらく1回は読んでいるのではないかと思うが、あまり強い印象はない。決して悪い作品ではないのだろうが、いやむしろ情緒の溢れる作品だと思うが、正直じれったくなってしまうのだ。こちらが先にかかわられた原作だとは思っても、つい乱歩の「緑衣の鬼」と比べてしまう。逆に「緑衣の鬼」はその後も何回か読み返している。読み返すのはリライト版でなくて、乱歩が大人を対象に書いた原作のほうだが。こういうことを考えると翻案というのは、そのやり方次第で、とても良いものになるのだと、あらためてそんなことを考える。とくに文学に登場した有名な人物は、翻案化されることによって、より多くの人々に知られ、親しまれ、愛されていくのだと思う。
「宝島」「ドンキホーテ」、「三銃士」や「鉄仮面」などダルタニアンの物語、「巌窟王」(モンテクリスト伯) 、「ああ無情」(レ・ミゼラブル)、カルメン、「椿姫」、ファウスト、「復活」のカチューシャ、「アンナ・カレーニナ」、ウェルテル、「白鯨」のエイハヴ船長、「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラ、「オペラ座の怪人」、黄金バット、ドラキュラやフランケンシュタイン鞍馬天狗、「アラビアのロレンス」、チャタレー夫人、「人形の家」のノラ、シェークスピアの数々の戯曲やその登場人物たち…そしてシャーロック・ホームズ、アルセーヌ・ルパン、明智小五郎金田一耕助…これらの原作をじっさいに読んでいる人は、その方面の専門家やよほどの読書家でないかぎり、少ないと思う。僕自身、必ずしも全て原作を読んだわけではなく、あるいは中には実在の人物もいるが、その伝記や資料などに詳しくあたっているとは限らない。機会と興味のある人々は、それらに触れてみるのもいいだろう。もちろん無理に触れる必要もない。
ただ、こういった翻案文学をはじめとして、映像化したり、漫画で読まれたり、舞台で上演されたりすることによって…より多くの人々に触れられていくのだと感じる。そして僕の場合は、「緑衣の鬼」が、そういうことを意識的に考える大きなきっかけのひとつであった。初めて「緑衣の鬼」を読んでから今年で52年が過ぎた。