ヒロイズムの恐怖

自衛・軍事力依存・愛国心を主張する者の根本精神はヒロイズムだ。これは「他者のための自己犠牲」を礼賛する気持ちからきている。そのヒロイズムに心酔しそれに「美」を感ずる者たちだ。幼児性の抜けきれない未成熟な者に見られる傾向だ。
「自衛のために過渡に軍事力を過信して自己を犠牲にして自国を守ろうとする気持ちに強烈な憧れをもつ思想の持ち主」のことを、もう少し要約した表現として「愛国的な軍事力の信奉者」ということで、これをさらに略して仮に「愛軍者」と言っておく。
愛軍者の特徴は、自立できない者たちであることだ。「国を愛する」とか「国を守る」といったことに異常なほどの価値と熱意をもつ。「他者のため」「自分以外のなにかのため」といったことにたいして度を超して固執する。
愛軍者は、自己を愛することができないために、自己以外の何かに自己の身を捧げることでのみ自己の「価値」を見出せるように錯覚する。そしてそれを見た目に判りやすい、一見、華々しい暴力と破壊つまり軍事力と戦闘というかたちに惹かれる。それは本来は最も脆いものであるはずだが、目先の短期的には、いちばん強いもののようにみえるからだ。
愛軍者は、自己や自己の身近な者や親しい者たちを愛することに対して、それをエゴイズムといって、これを軽蔑し蔑む。ここにいたって愛軍者は自分を他の多くの人々とは違う、普通の人たちよりも優れた特別に選ばれた人間だという優越感をもつことができる。つまりエリート意識である。
では、人道・博愛の人々にたいしては愛軍者はどう思うのか。基本的には、この人々にたいして愛軍者は、否定的な感情をもつ。なぜなら、人道・博愛で動く人々は、徹底した自己愛者だからだ。自分自身を1寸の隙もなく肯定し信じ愛している人たちだからだ。だから他者を、ただ愛する。それは自己を愛することの昇華となる。だから、愛軍者にとっては、そのような人々の存在は煙たく目障りであり、かりに表面では露骨な批判や排除はしなくても本心では、できればいてほしくはないであろうし、すくなくとも敬遠したい存在である。
つまり愛軍者は、自己を愛せず、それゆえ他者を愛することもできず、しかしそれにたえられず、「国を愛する」という抽象的な権威にたいしてそれを擬人化して「…のために命を捧げる」といったヒロイズム幻想に陶酔する。完全な依存体質である。
なぜ「国」とか「国家」といったことに、それほどこだわるのか。そこに軍事的なことが関係してくるが、それは明確な「たたかう相手」があるからだ。つまり「敵」がいるからだ。かりに自国がどこかの国から侵略を受けるとする。侵略してくる国は、自国に侵入し自国を荒らすかもしれない。いや残念ながら、まずたいていはそうであろう。確実なことはいえないとしても、歴史上の経験から、それはまずそうであろうし、またそう思ってしぜんなことであろう。侵略者たちは破壊をなし、また暴虐をしつくすかもしれない。それにたいして「被害」を受けるという感覚は当然である。侵略者を憎むのもまた然りである。しかしそれがどんなに有害でも、憎悪の感情をもとうと、だからそれが「敵」というのとは違う。「相手とたたかう」ことによって、はじめて「敵」が生まれる。愛軍者とは、「たたかう」ことによって「敵」をつくり、その敵と戦うことで「国を愛する」という自己の存在意義をつくり、ヒロイズム幻想に酔いしれる。だから「他国」「外国」という存在が必要であり、他国・外国はふつうにあることであるか、それに「敵国」が必要なのだ。愛軍者は、つねに敵を求めている。
ウクライナとロシアとの戦争は、世界の愛軍者を勢いづけた。日本も同じである。愛軍者の発言力は、一挙に盛り上がっている。この勢いに呑まれてはならない。「防衛政策の見直し」とか、「国を守る覚悟」など安易な勢いに乗せられてはいけない。

共同社会と競走社会

テェンニエスの「ゲマインシャフトゲゼルシャフト」は「共同社会と機能社会」と訳されることが多いようだが、共同社会はいいとして、学問的にはともかく、現実的には「競走社会」というのが実感がある。
それはともかくーー共同社会が家族的とか地域的などの感覚だとして、競走社会は基本的に資本主義社会のことだと思えばいい。資本主義の他の社会と決定的に違うのは、それが「競走を優先する社会」だということだと思う。
競走があるから効率的で生産性が高くなり、より便利でサービスの行き届いた世の中になる。基本的にそうだと思う。ただそこで考えたほうがいいと思うのは、ーーたしかに競走によって、ライバルに勝つために頑張る、ということはある。だが、ライバルや競走とかいうことのみが、利便性やサービスなどの発達をうながし、発明・発見や効率化に貢献する、そのすべてなのだろうか?ということだ。
もちろん社会主義諸国が競走原理の不足から生産力が低下して、そのために必要品やサービスが極端に悪い社会になってしまったことは事実だろう。だがそこには、競走のことだけでなく、また社会主義独自の計画経済の無理や官僚制や自由民主主義のない抑圧社会であること、さらには多大な軍事費の負担などーーたんに競走の有る無しだけではない複数の原因があったと思う。自由と民主主義が基本的に確保されていて、軍事費を抑えめにし、福祉社会であれば、産業・経済や職業やサービスなどの各方面で、ことさら競走重視の社会でなくとも、充分なモノやサービスや情報などの行き届いた世の中が機能するのではないだろうか。
良いものを作る、より良いサービスを提供する、能力や効率を高めていく、安全で便利な社会を発達させていく…それらは思われているほど競走にこだわらなくとも成り立つように思う。
これからは機能分離だけでなく、ものごとによっては、そこに多少の非効率や生産性の成長などが弱くなったとしても、人々の仕事や活動が協力のもとに成り立つような職場・生産と家族や生活が目に見える感覚で結び付いた社会である。なによりもコミュニケーションと異文化との関わりを大切にする世の中である。そういう社会でなければこれからは世界の機能そのものが成立できなくなると思う。

性別役割分担の必要性

純化しすぎるところはあるが、すくなくとも政治家と軍人は、すべて女がなるほうがよい。この二つの職業は、基本的には必要悪なものだ。権力と暴力=政治と戦争という、本来ないにこしたことがないほうがいいものである。それでも必要性や一種の必要悪のようなことであるならば、それは根本には男が欲するものが原点である。それを社会の中から急に全面的になくそうとしても、おそらく不可能だろう。それならば、まだしも可能性の大きいことは、それを男から女へと役割分担することだと思う。
判りやすい例でいえば、ワイドショーで、政権や政局などの政治的な話題、安全保障や国際関係などの戦争や軍事力のことの話題、おもにこの二つを中心に取り上げる番組は「男」の本能・欲求・興味を基盤にしたものだ。それが視聴者の多数が女であったとしても、視聴の時間帯や出演するタレントや司会者等のことなどで影響している結果であり、基本的には「男的」な課題や関心のことである。基本的にそれらは、愛・いのち・生活とは反する。政界や安全保障は、基本的には権力と軍事のことであり、それは闘争と優劣と支配である。どんなにキレイゴトをいってもかわらない。
政治は本能でやるのがいい。男は理屈っぽいから相応しくない。また戦争は理性でするものだ。だから闘いそのものを欲し、しかもそこに大義名分とゲーム感覚の楽しさを求める男は、それに相応しくない。
女だけが選挙権をもち、女だけが政治家になる。軍人もすべて女がなり、軍に関する組織や予算、もちろん作戦などもすべて女がする。男はいっさい政治と戦争に関わらない。
すくなくとも現在よりは社会がうまくいくのではないかと思う。

プーチンは男だから戦争をした

プーチンが戦争をしたということは、男が戦争をしたということだ。戦争をした者の性別がたまたま男だったのではない。
男が政治家であるかぎり、また男が軍人であるかぎり、戦争はかならず起こる。もちろん男が首脳の国がみな戦争をするわけでもなく、軍人の大半が男である軍隊が必ず暴走するわけでもない。だがそれはその環境がそうさせないだけで、潜在的に男は戦争をやりたがっている。
バイデン大統領も戦争を道具にして、ロシアの消耗を求めている。ゼレンスキー大統領は、自衛ということで、やはり戦争をしている。これらのことはすべて、正しさや利害などに関係なく戦いを求める男の本能的な衝動の表れだ。それがどんなに条理から正しいものであっても、それがどれほど利害や必要性を理由にしていても、あるいはそれが利他的な愛であろうと、たたかいというそれじたいに歓びや躍動感や「やりがい」のようなものを感じてしまう。これは男独自の本能だ。
だから暴力と権力ーーその代表的な戦争と政治、それらを男から女に移譲することが必要なのだ。そうなってももちろん全てがうまくいくわけではないだろうが、しかしいまよりはよくなるのではないかと思う。

最初の権威主義の出逢い「鼻」

「鼻」といっても芥川でなくゴーゴリーのほうだ。小学校を卒業して間もなく中学に入学する頃だった。
ジュニア版のゴーゴリー「鼻」を読んだ。主人公は役人だが8等官という階級だった。私はよくわからなかったが、その主人公は自分が少佐と呼ばれることをコノンダと書いてあった。何のことか私にはわからなかったが、ずっと後になって、8等官という等級が軍人だと少佐に相当することだと知った。小説の主人公は、文官だったが、軍人に合わせると少佐になるが、ただもし実際に文官が軍人として働く場合には、等級は三階級くらい下がってしまうとのことだ。めんどくさい話だが、ようは同じ等級でも文官より武官(軍人)のほうが格が相当に上ということらしい。
で、主人公は、文官なのに武官だと少佐クラスだということを言いたくて、周りから少佐と呼ばれたい…そういう話だ。
どうでもないようなことをそこまでこだわること、それが私が「人間、とくに男はこんなに地位や権力にこだわる」ということに触れた最初だった。
ゴーゴリーはロシアの作家だが、生まれはウクライナだ。それはいまのウクライナ=ロシアの戦争とは関係ないが、しかしなんとも表現しきれない皮肉な感覚をいだく。

政治家と自衛官を全て女性にせよ

ものごと「絶対」ということはないにせよ、たぶん一般的に男のほうが女よりも「暴力性」「破壊衝動」「闘争本能」「競争意識」「権力志向」「支配欲求」といったことは強いと思う。
いまはとくにプーチン大統領の暴力性や権威主義のことが世間でいわれるが、ーーこれが仮にプーチンが女であったらどうであったろうか?と考える。そうなってみなければ判らないし現にプーチンは男性なのだから、そもそもこのような仮定が成立しないことは判っている。それでもあえてだが、やはり性別の影響は大きいと念わざるをえない。
ロシアや外国のことを今いっても仕方ないとして、とりあえず日本では、政治家と自衛官を全て女性にしたらどうかと思う。性別をこえて最後は個人の問題だろうが、前提的にそのようにする。すくなくとも、いまよりは暴力性や権力争い、執拗な勝敗や優劣のこだわり、意地やプライド…それらから生じる害悪は少なくなるのではないだろうか。
選挙権は男性もあってもいいとも思ったが、中途半端にせず、男性は選挙権もなくしてしまったらいいと思う。政治は女性だけがする。「女性が女性を選ぶ」、それに徹する。男性は政治から離れる。
自衛隊をなくせといっても無理だ。すくなくともすぐにできることではない。批判を言われながらも自衛隊の存在を肯定する人が多い。それなら自衛官をすべて女性にする。「男は戦争好きで女は平和的」と単純にステレオタイプで考えていいか解らない。わからないが、経験と感覚から、どうせ簡単には軍事力をなくせないなら、軍事力に携わる者は女性にしたら、かなり平和的な運用ができるかもしれないと思うのだ。
男は、暴力すなわち戦争と、権力すなわち政治と、いっさいかかわらない世の中が望まれる。

「かわいい」と「かっこいい」

とくに子供の場合だが、人やモノやものごとにたいする肯定的な表現で、女の子からは「かわいい」という言葉を聞くように思うし、男の子からは「かっこいい」が聞かれると思う。
「かわいい」は、たとえば人形や赤ちゃん、花や愛玩的な動物などにたいしてなど、その感覚は比較的にわかりやすい。では「かっこいい」はどういう感覚だろうか。それはたとえば飛んでいるジェット機などのスマートな形や速さ。特撮番組などのヒーローの強さなど…主として「強い」とか能力的な高さや、あるいは「たたかい」といったことがイメージされる場合が多いように思える。やはり子供の頃から、「男性」性のもつ戦いや強さ、競い合うものがあるのだと思う。それを一概に悪いとは思わないが、だが「かっこいい」という言葉や表現のなかに、無意識でも暴力性や破壊性、競争欲求などがあるのだろうと思うと複雑な感じがする。
暴力や戦争、権力闘争や支配欲求、こういった衝動や欲望は、やはり本能的な男性「性」なのだと思わざるをえない。ーーなにげなく聞かれる「かっこいい」の単語のなかに、男性特有の闘争本能や破壊欲求のようなものを感ぜざるをえない。