左翼の弱点

「左翼」という言い方に、そもそも問題があるかもしれない。甚だ政治的だ。それが世界を狭くしている、少なくても、「左翼」と呼ばれる、あるいは左翼だと自認している人々の或る種のイメージが作られてしまうからだ。もちろん、そのように思ってしまう、「左翼」ということに対して抱く、左翼「ではない」人々の偏見のようなものもあるだろう。だが同時に、やはり左翼もしくは左翼や左翼的と言われる人々のほうにも、何か言い切れない、しかしネガティブに感じられるイメージのようなものがあるということは否定できないのだと思う。

「左翼」「左翼的」といった言葉からは、もちろんそれを聞いた人の個人差が大きいことは言うまでもない。たとえば昔の過激派の学生運動、あるいは爆発テロなどの暴力的な思想的集団のイメージをもたれることも少なからずあると思う。ただ、冷戦時代が終わって三十年以上が経った現在では、左翼に対するそういう極端なイメージは、それがあるとしても、だからといって中心的なものとも思いにくい。

個人的には、僕は左翼・左翼的と思われている人々には、「必要以上に政治的」な感覚、そういうイメージがある。もっとも「政治的」というのは何かと問われても、僕にそれに明確に答えられるわけでもない。政治に関心を持つ人間は左翼でなくてもいるし、特別に政治に興味のない人間だって、その場や状況で政治の話をすることはあるだろう。ということは、左翼の人々には、また独自の感覚があるのだと思う。

翼の人々は、資本主義に対して反撥の感情が強すぎる、そう感じられる。資本主義に問題が多いことは確かだろう。ただ同時に資本主義というものは、時代や環境の影響を受けながら、あきらかに変化もしていると思う。左翼は、その変化を認めない、あるいは過小評価している、資本主義もよい意味でも変化変容して、あきらかに変革されていることを素直に認めていないという気がする。否、うがった見方かもしれないが、左翼の人々の一般的なイメージは、資本主義が変化してそれが多くの人々に利益をもたらすことを嫌がっているような印象を受ける。実際は、そうではないのかもしれない。ただ僕がここで言いたいのは、そのように感じられることが多いということだ。ーーしかし資本主義はあきらかに「変化」している。

もう1つ左翼に対して、違和感というか「ちょっと、何かそこはヘンじゃないかな」と感じることがある。

僕の思い込みだと言われたら、それはそうかもしれないが…

左翼は、社会主義国や旧・社会主義国家などに対して、あるいは社会主義的な政策を部分的に行い、またそれを公言する国や政府…等々に対して「甘い」と感じられる。転じて、資本主義国家やいわゆる西側世界、とくにアメリカ政府やアメリカという国に対しては厳しすぎるという感覚を抱く。

アメリカが、冷戦後、いつの頃からか「民主主義国家VS権威主義的国家」といった表現をするようになった。いわゆる左翼とかリベラルを自認する人々には、この民主主義VS権威主義という図式に対して、なにか反撥的なものを感じているように…そう思いたくなってしまう感覚を持たざるを得ないのだ。

反・資本主義、反米、…転じて親・社会主義、親・社会主義国家…

こう書いてしまうと、それはそれでまたステレオタイプの図式になってしまうかもしれない。だが、どうしても、そういう感覚も否定しきれないのだ。

左翼は成熟すべき時代にきているのではないだろうか。