自由の押し付けは自由か?

アメリカは、他の国家・権力・地域あるいは民族など集団に対してーー「自由を押し付ける国」である。

アメリカは、自由を普遍的な価値と考える。普遍なのだから、それは押し付け強制してもいいことになる。

自由は根本的には個人に存する。だから個人に対しては、基本的には自由を強制することはできない。ただし、その個人が自由になる能力および環境にない場合には、自由の阻害要因を取り除き、自由を確立するための助力をすることは、認められるのみならず、それをすることは国家や公的機関を含めて社会としての義務となる。

アメリカは、個人に自由を強制しないが、しかし集団や権力に対しては、その所属する個人を、その権力の支配下にある個人をーー「自由にする」ように「強制」する。

最も典型的な実例は、太平洋戦争後の日本占領のときに行われた日本改革は、個人としての日本国民を解放するために、日本の権力に対して「日本の国民を自由にするため」に、さまざまな改革を「強制」したということだ。

アメリカは、そのようにして、アメリカ以外の「強権政治的」「抑圧的」な国家や民族など他「集団」に対して、大いに「自由」を「押し付けて」きたのだ。

それがアメリカの「自由外交」である。そこには軍事力の行使も含まれる。むやみに戦争を好むわけではないし、平和を望まないわけではない。しかし覚えておいたほうがいいのは、自由および「自由と人道」と平和とが明確に対立した場合には、多くの場合には、前者つまり「自由」および「人道」のほうに優先順位が置かれるということだ。

前提に「自由」を最大の価値とすることからくる行動原理だ。

アメリカは自由に優るとも劣らないほど「人道」を口にする。その人道の中心になることは、基本的には「自由が抑圧されたために生じる被害」のことである。

「自由が抑圧された結果に生じる、非人道的な状態」とは…ひとことで言えば、「自由を抑圧した結果として生じる」ことである。

個人の嗜好や趣味や生活態度などの自由、思想信条の自由、言論・表現の自由、自己の政治表明をしたり自己の求める政策や政治体制などを選択する自由、不当に拘束されたり投獄されたりしない自由、拷問や残虐な刑罰を受けない自由、暴力や虐待を受けない自由ーー基本的に、自由が失われているために生じる非人道的な状態である。

アメリカは、そういう意味で、自由の敵を倒すためであれば、それによって戦争・戦闘・武力行使が為されることはやむを得ない、という考えをもつ。そしてこの考えは、かなり多数のアメリカ国民の支持を受けることが多い。

東西冷戦時代に社会主義に対抗したアメリカは、「自由の抑圧」=「非人道」を許さないということで、そのための軍拡も武力行使も、アメリカにとっては「人道のため」であった。

平和が人道にとって最も大切だと考える人にとっては、たとえ自由の抑圧から生じる圧政からの解放のためであっても「あきらかに人命が失われる戦争」には、強く否定的になる。

アメリカの自由がどういう方向に進むのか、まだわからない。