「できる」と傲慢

傲慢の基本は「できる」ことにある。人間が、他の人間を非難するときは、必ずそこに「自分は、それが出来る」しかし「その人は、それが出来ない」という気持ちと考えが前提になっている。そこには「できる者」が「できない者」に対する蔑視と差別の感情および認識がある。

だがこれは、正確には「できるのに、しない」という意味が含まれているのだ。「本当は、しようと思えばやれるのに、やらないだけだ」というものだ。さらに言えば、それは「できない者」を「努力不足」「我慢がたりない」「わがまま」等々といった、できない者に対する人間性そのものを否定的に批判する方向に進む。

これらの根本は、すべて「自分は、できる」あるいは、できると「思っている」という感覚から来ている。

自分は「できる」「できると感じている」「できると思い込んでいる」等々の人々は、自分が幸運に恵まれているということに気づいていない。あるいは気付かないふりをしている。あるいは気づくことに抵抗している。そういう人々である。

「できる」とは、幸運がもたらしたことだ。能力のある幸運、素質に恵まれた幸運、正しい判断ができる幸運、感情をコントロールすることができる幸運、そして「努力することができる」幸運ーー、すべて幸運によって、なされている。人間の「できる」「できない」は、不運か幸運かの違いにしかすぎない!

無自覚で「できる」人は、自分の幸運に気づいていない。

「自分だって大変だったのにやれた」という人は、できない人に対する妬みと憎しみをもつ。「なんで自分はあんなに苦労したのに、ろくに努力もしない者を同情し、助けなければならないのか?!」と。

「もっと悪い条件にもかかわらず、頑張っている人がいる」と言う人は、差別を生む。差別はそのようにして、無意識のうちに、つくられ、そして広がる。

「できない」ことは不運なことであり、できないことで責められるのは不幸な人だ。そして不運で不幸な人を、とがめ、蔑み、それに制裁を加えること、ーーそれが暴力である。その暴力によって脅迫をすることが抑圧であり、抑圧が恒常化したのが権力だ。権力を法的に保障された組織機構が国家である。

いまこそ、「できない人」に対する抑圧が、社会における不幸の大半を生んでいることに気づくときである。