多忙と暇

多忙と暇のどちらがいいかは一概に言えない。結論を言えば、人間は、ふつう「無いもの」を欲しがるということだ。御都合主義なのが人間だ。ただ結果的に、その人がそれでよければいいということになる。暇で、したいことが多くあれば、その人にとっていいだろうし、結果、暇でもなくなるかもしれない。しかしたぶん大抵は、多忙なほうが充実している場合が多いとは思うが。多忙の理由や内容にもよるが、だいたいが多忙だと感じるときは、それが自分以外の他者のためにしていることが多い。それが仕事であればもちろん、ふつうに仕事や職業とみなされない家事・育児やボランティアや何かの社会活動的なことでも、とにかく何らかの意味で他者・周囲・社会といったことに関連していて、それで多忙な場合、そこに大なり小なり充実した感覚があるのは普通かと思う。断言ができないことは当然としても、それが余程の強制労働のようなことでないかぎり、多忙なことは、少なくとも悪くはないようだ。多忙すぎる問題は考えねばならないが、多忙すぎる人をある程度は休ませる注意を忘れないようにして、しかし基本的には多忙なことは良いことだという認識は大切だ。「退屈」は危険なことだ。それは疎外感や孤立を生みやすい。「暇を持て余している人」を悪いとかダメだと言わない。ただそれが、本人はもとより周囲や社会にも問題が生じる場合は、それを他人事にしてはいけないだろう。

「多忙」というものを、大きな価値だという認識が大切だと思う。