映画「原爆の子」

映画「原爆の子」を初めて観たのは、小学生になる前だったと思う。何歳だったかは覚えていない。
原爆投下の時の場面が怖かった。
人々が焼けただれていく場面が、鮮明に描かれていた。目をそむけた。
ずっと後になり成人してから再び「原爆の子」を観た。たぶん子供の頃に観てから三十年以上も経っていたのではないかと思う。
おとなになっていたからだろう。最初に観たときほどの恐怖感はなかった。「たしかに怖いけれど、それほどではないな。あのときは本当に怖かったが」と。年齢差があるのだから、考えてみると当然かもしれない。
しかし今あらためて思う。たしかに幼い頃に観たので、必要以上に恐怖感を植え付けられた、ということがあったのだろう。それをいいことだとは言えないかもしれない。だが考え方を変えれば、もし仮に、成人してからあの映画を初めて観たとしたら、強烈な恐怖感はなかっただろうが、しかし、それは本当のところ、どうなのだろう?
原爆を本当に「こわい」と感じることがなくて終わっていただろう。もちろん、どちらにせよ、それは実際の被爆の恐怖も悲惨も解るわけがない。それは被爆者以外だれも解らない。
それは当然だとして、しかしそれでは「怖い」とそう「思う」「感じる」という、その感覚や意識さえも、まったく無いということで終わってしまうだろう。幼年期に観たからこそ、感覚的に恐怖感を感じたのだ。
あの恐怖感は、必要以上の恐怖感と思っていた。だが、それは、はたしてそう言い切れるだろうか?たとえ実際の惨禍と被爆者の苦しみを知らないとはしても、なにもわからない子供の頃に触れたからこそ「原爆って怖いものだ」という、その感覚だけは焼き付いたのだと思う。それがなければ、おそらく原爆に対する感覚は、まったく違ったものとなっていたと思う。
あれは必要以上の恐怖感ではなくて、「必要」な「恐怖感」だったのではないだろうか。いまはそう思えてならない。