人権と国家そして戦争

国家というものに対して、それは既成で当然の存在を前提にして、しかし同時に、つねに問われてきている課題でもある。
とうぜん必要があるから国家も存在している。ただそれが明らかに矛盾や疑問を強く感じることが多くなると、それも問われねばならない課題として浮上する。
国家の定義は既に一定の定説もしくはそれに近いものはあるだろう。それは主権や独立、組織や機関、統治権力と国民…それらの組み合わせで、だいたいの概念はできる。政治学者などによって細かい違いや異論などがあっても、ある程度の概念はさだまっているといえるだろう。
自分は国家を「総合権力を持った独立または、なかば独立をした組織体」というていどに解釈している。
近代国家は、絶対的な独立と主権というタテマエで概念化され、それを理想としてきた。だから、一方での普遍原理とされてきた人権という概念とは、並行・矛盾・対立・妥協、等々のなかでの併存的な状態であったといっていいだろう。ただし、それがとくに第二次世界大戦後、さらに近年になって、あきらかに「人権は国家を超えて通用する」という、国家に対しての人権の優越が認知されてきている。半世紀ほど以前の時代であれば、あきらかに人権が抑圧されていても、それが国内の問題であれば「それはその国家内の問題」と考えられて、他国がそれを指摘したり批判をすることは「内政干渉」として、人権のことであっても、内政干渉をするほうが悪いとされた。そういう世界認識だった。それはそれなりの理由があった。「人権」という名目や大義名分によってなんでもできるとなれば、なんでもかんでも人権という理由でその国を悪者にして、だからその国に何をしてもいいという状況をつくってしまい、それで侵略的なことも認められる、つごうの悪い国の政府をクーデターなどを支援して政権の転覆をさせたり、他国に対して、やりたい放題になってしまう。しかも、それは力の強い国ほど、弱い国に干渉や介入をしやすいから、「大国の横暴」を野放しにすることになる。だから「内政干渉をしてはいけない」という国際的なルールや認識などは、かつては正しいといえた。もっとも、だからといって、こんどは逆に、それでは「内政干渉」だといって、なにもかも認められるのかといえば、それはまた違うのだと思う。内政干渉をしない、内政「不」干渉が国際政治の原則ではあっても、あきらかに人権の抑圧がおこなわれていることに対しては、それじたいに対する批判なりメッセージなどが発せられることは、それはそれとして当然と考えられる。ただ、それが露骨な政権批判や体制の転覆などに「他国が介入」したりするとなると、それはまた問題である、ということだ。―いずれにせよ、数十年前の世界では、けっして無制限ではないが原則的な常識としては「内政干渉をしてはいけない」言い換えれば「内政「不」干渉」がふつうの感覚だった。
―しかし世の中は変わる。とうぜん世界の認識や常識も変わる。全般の傾向としては「内政干渉であっても人権問題には干渉してもよい」という意見のほうが強くなってきているのだ。あるいは言い方を変えて「人権に関わることは内政干渉にはならない」という表現もできる。昨今とくにアメリカが中国の人権問題のことを言い、それに対して中国が「それは内政干渉だ」と反論することが報道されるが、それはこの人権と国家の問題が最も分かりやすいかたちで表れていることのひとつだといえる。もちろんこれは、アメリカはアメリカで、人権をタテにとって、中国というライバルを批判するための口実にしているところはある。それを言っているアメリカは、そんなに人権が守られているのか、という反論もできる。しょせんアメリカだって、自国のための利害・打算ではないかと、言えばいえるし、その通りだ。―しかし、それでも人権をあきらかに抑圧している国家は批判をされても仕方ないし、そこに内政干渉を持ち出してきても、それでも「人権を抑圧する国家のほうが悪い」という認識をされる。すくなくとも、それが現在の国際常識だといっていい。
だが、ここでまた大きな問題がある。ある国が、あきらかに人権を抑圧しているとする。それは許せないといって、他国がその国の政権を倒すために武力介入をする。さらに明確に戦争をする。戦争をしてでも人権を守る…その考え方や、たんに考え方だけにとどまらず、じっさいに戦争に踏み切る。―それをどう考えるべきか?という現代的な、とても大きな問題だ。
問題を整理する。
現代世界では、人権は国家主権よりも優越している。では人権を抑圧している国家を、「その国の国民の人権を回復するため」とか「その国で迫害を受けている民族を解放するため」といった理由で、その国に対して戦争をすることが認められるのかという問題である。ここでの最大の問題は、人権のためであっても、戦争という行為になれば、ふつうに考えて、その戦争によって、大きな死傷者や破壊がもたらされるであろう、ということだ。戦争そのものが人権の剥奪であろう。そこには本末転倒の矛盾がある。そうであれば、そこには「戦争による被害」と、戦争をしないことによって「継続する人権抑圧による被害」と、どちらが「より被害が大きいか」という問題になるだろう。しかし実際のことにならなければ、こういったことは言い切れない。前もって「かならずこれが正しい」という明確な解答をもつことができるだろうか?はなはだ疑問だ。結論を言えば、それは結果論でしか言えない。その結果、それで助かった、救われた、と思う人にとっては「よかった」ということになる。その結果、悪くなった、かえってひどくなった、という人にとっては「よくなかった」ことになる。
―ただ自分としては、まず戦争は、「絶対的に悪である」という立場に立ちたい。戦争という行為そのものに対しては、それじたいは「悪」であると。そうでないと、けっきょく、いろいろと理由をつけて「戦争も仕方ない」という方向に流れてしまうからだ。「この場合の戦争は暴力ではなく正義だ」という安直な理論で戦争肯定の政策が当然のように押し切られてしまう。それは、なんとしてでも避けねばならない。そのことは念頭におくべきだ。
前記のようなことを前提としながら、現実の政治や国際環境を見ていかねばならない。人権・国家・戦争―それを具体的な状況のなかで考えていくことが大切だ。