軍事力信仰の恐怖

戦争が長期化するに伴い、メディアすくなくともマスメディア報道での戦術戦略及び兵器の性能や使用などにたいする話が多くなってきている。
例えば湾岸戦争のときもそうであったが、しかし湾岸戦争の場合は、イラクに対しての多国籍軍という構図で、それは事実上はイラク対全世界に等しい戦争だった。だから、不謹慎な表現という批判を覚悟して言わせてもらえれば、一面で侵略国からクゥエートを解放するという目的のため、これが明確だった。それだけに圧倒的に軍事力で勝り、また国際社会でも有利だった多国籍軍側は余裕があった。ゆえに国際法の遵守にも非常に神経を使った。それでさえも国際法違反あるいはその疑問はあったが。ー-そしてもうひとつは、軍事評論家と言われる人々がやたらとメディアに登場したことだ。しかしこれはある意味、一部のミリタリーマニアのあいだで中心になったことで終わった。
しかし現在おこなわれているウクライナとロシアの戦いは、事情が違う。ロシアが核大国で常任理事国であることが1つ。ウクライナが強い抵抗をしていることが1つ。そして西側諸国を中心にロシア包囲網というべきものが形成されていることが1つ。最後に一方の交戦当事国の指導者であるプーチン大統領に対する強い国際社会による批判があることだろうか。
そういう状態において、軍事力にたいする依存が高まる。これは軍事マニアのことでなく、現実政治のきわめて現実性の大きい問題としてあらわれている。世界は再び冷戦期や或いは第1次世界大戦前の帝国主義が頂点の時代のように逆戻りしようとしている。
ロシアの侵略行為は、ウクライナの人々に大きな被害をあたえていることはもちろん、それだけにとどまらず、世界の軍拡化を復活させ、それに拍車をかけている。
こういうときだからこそ、軍拡化に歯止めをかけねばならない。戦争に対する肯定感。力の信奉。「けっきょく最後に頼れるのは軍事力」という感覚。それは国際社会の否定である。人間の全可能性を否定し弱肉強食に逆行することに等しい。そしてそれは破壊と破滅への道を意味する。
いまこそ非戦と非軍事的な方法を模索しなければならない。