ウクライナ応援のなかみも考えよ

一般的な言い方として「ウクライナ頑張れ」はいい。同時にその内容を考えることも大切だ。
ウクライナの人々のなかには、いろいろな立場や考え方の人がいると思う。侵略をされている側にたいして「あなた達を応援する人間がいる」という気持ちから「ウクライナ頑張れ」はよいと思う。ただ、何をどう「頑張る」のか、場合によっては頑張る必要もない人もいるかもしれない。その実際の言動や対応の仕方などは、ウクライナ人とかウクライナ国民とかでも、1人ひとりは違うと思う。
民族の問題は難しい。それは基本的には、その民族の、さらにはその1人ひとりのことになるだろう。基本的に、当事者でない第三者が、とくに「わかっている」ような言い方はしないほうがいいと思う。そういうことを前提にして、いまウクライナは、侵略に対して武力を含めての抵抗をしている。いわゆる「抗戦」であり、戦闘がおこなわれている。そのことに対して「武力による抵抗は被害を大きくするだけだ。戦闘をやめるべきだ」という意見もあるだろう。考え方は自由だし、それを個人的に思うのはいい。しかしそれをウクライナの人々に向けて公然と述べることは、基本的に賛成は出来ないし少なくとも控えたほうがいいと思う。究極的には1人ひとり個人のことにはなるのだろうが、それとはまたべつに集団としての伝統・慣習や歴史的なこと、当事者でしか解らない気持ちや感覚などがあるかもしれない。ーいずれにしてもいえることは、ウクライナの人々が「生命をかけてでも守りたい」という気持ちと行動は、それはその人々にとって必要なことなのだ。
前述のことは前提にして、こんどは逆にウクライナの人々のなかでも、自分や家族などが危険を避けて避難する人たちもいる。できるだけ安全な場所に確実に早く逃れようとするのは当然だろうし、また眼前に危険がせまり、あれこれ考えたり準備する猶予もなく、その場を逃れるのが精一杯の人もいるだろう。その地に留まりロシア軍と戦うつもりであった、あるいは戦っていたが、やはり避難をしたいと思うようになった人もいるかもしれない。あるいはとくに武器を持って戦おうとまでは思っていなかったが、いろいろな事情や思いもあり、そうしているうちに戦禍に巻き込まれ逃げる機会も失ってしまった、というような人もいるかもしれない。…いま述べたことは、あくまでも想定・想像であり、もちろん正確にその通りだというつもりはない。じっさいには、もっとさまざまな、ひとことでは言い切れない、説明しきれないことがあるかと思う。
いずれにしても、ウクライナがロシアの侵攻を受けて戦争になり、多くの死傷者が出て、人々が苦しんでいることはたしかだ。ウクライナという国家と国民を総体として支持し支援するのはいいと思う。その上で、忘れてはならないのは、ウクライナの国民や民族であっても、1人ひとりについては、あくまで「その個人」である。
前記のようなことを認識した上で、国際社会は、基本的には、まず非軍事的な人道的支援を最優先して活動をおこなうべきだと思う。具体的には、医療的なこと、飲食など水や食料などの供給、たとえば崩れた建物などの下敷きになったり閉じ込められたりしている人の救出作業、戦闘・戦災等々により身体的のみならず精神的な打撃を受けている人にたいしてのケア、そういうことの支援活動である。
難しいのは、個人的にウクライナのために義勇兵になろうとする人のことである。ウクライナ義勇兵を応募し兵士として支援を求めることは、ウクライナの政権としては当然のことであると思う。ただ、第三者的な国として、また国連を含む国際機構など、国際社会としてはどうあるべきかというのはまたべつな問題が生じると思う。原則的には、たぶん、各国の判断に任せられるのだと思う。その上で希望的には、できれば義勇兵を希望する人に、非軍事的な人道的支援の方面での活動をするよう、その方向で交渉・相談をしていくように各国の政府や国際機会には求めたい。前述の繰り返しになるが、ウクライナ政府が義勇兵を求めることや、また本来は軍人ではないウクライナ市民・住民がたとえば民兵などとして抗戦をおこなうのはウクライナの民としての自由であり権利である。そこに兵士として、しかも文字通り自己の生命をかけてまでも協力・支援しようとすることを否定はしないし、それを止める権利はない。同時に、可能ならば、その気持ちと覚悟を平和的な方法である人道的支援の方面で生かしてもらえるようにしてほしい。しかし、それでも、「自分はウクライナはために武器を持って侵略者と闘い、侵略を阻止するために努力しい。そのためには、自分がいちばんできると思うのは、自ら武力を用いて戦うことだと思う」ーと、そう思う人には、純然たる1個人として義勇兵に参加するのは自由だと思う。各国は自国国民の義勇兵参加には、それを奨励することはせず、ただ最終的には禁止はしない、ということにとどめることが望ましいと思う。