メディアの役割

メディアはウクライナのことに関して、戦況や国際情勢などを伝えている。それは必要なことだが、同時にそのような情報や知識や解説などは、たしかに事実を知る上での材料としては大切だと思う。ただこの頃感じるのだが、ーもちろん受け手の問題は大きいとしても、そういう情報や番組は気をつけなければと思う。ー、知らず知らずのうちに、なにか自分が「わかっている」ような感覚になってしまうのだ。じつは殆どのことは解っていないはずなのに、あたかもさまざまのことを知って理解しているような感覚になっている。これは恐いことだ。
情報・知識・解説などは大切だ。それはメディアの役割として大きい。しかし、同時にそれは気をつけていないと自身がじっさいの戦場など現場からかけ離れて、自分とは無関係な遠い所の出来事になってしまう。じっさいにそれは遠い場所なのだが、それだけではなく、感覚的にも、遠い「自分とは無関係」なことで、自分はそれらについて、あれこれと「実感から乖離した」遠いところの現象に感じていく。当事者ではないのだから実感が乏しいのはある意味当然だろう。しかしそれ相当も、いつの間にか、そういう情報や解説あるいは制度や評論家などの討論などを触れていくにつれて、戦争のことがさらに「他人ごと」になっていく感覚がある。戦争を「知っている」ような、「判っている」ような、「語れる」ようなそういう感覚である。これは違うんじゃないかと思う。
当事者、当事国でなく、直接にそこに何か関わっているわけでもないかぎり、そういう殆どの人々にできるのは、戦争をやめさせるための声や意思だけではないか。政治的なことや軍事的なこと、戦況や政治家の発言…それらのことは、知ってわるいことはないし、またある程度の知識・情報・認識は必要だろう。だがいちばん重要なのは、そうしているあいだで次々に開いが死んでいるということだ。戦争をすこしでも早くやめることが大切なことだけはたしかなのだ。確実なことを、まず訴え続けるべきではないか。
会社なのは戦争をすこしでも早く終わらせることだ。即時に停戦せよ!このことを認識し主張していくことが、ただひとつ「正しい」と断言できることである。