第九条は日本文化として昇華した

憲法第9条は日本文化に昇華した。それはたんに法解釈や政治問題としてだけではなく、経済や社会はもとよりに染み込まれ、広く人々の生活や習慣、価値観、娯楽や芸術なども含めて、日本人の全体を包括的に染み込み、国民的な文化として定着した。
承知のように、戦後から現在まで、何かことあるたびに、日本の政治は常に護憲・改憲の両論がせめぎ合っている。だがこれは、その現象それじたいが、日本国憲法とくにその第9条が、それだけ日本国と日本国民に定着しているということの証明であると思う。
それは成憲以来、約4分の3世紀の歴史と経験のなかで、さまざまな、その時々の「現実」と、しかし決して消えることのない理念との確執と模索を経て積み重ねられてきた国民的「財産」である。
敗戦後の廃墟のなかで、9条の規定した非戦と非軍事の指針は現実そのものであった。その後の東西冷戦と米軍占領下における再軍備の方向も、また現実であった。講和後に軽武装と安保体制のもとで、経済の復興と成長に向かったことも現実だった。
自衛隊は軍隊か否か。自衛のための軍備であれば認められるのか、それとも自衛のためのであっても軍備は認められないのか。個別的自衛権集団的自衛権、どこまで認められるのか、それとも自衛権そのものはいっさい認められないのか。
これらの論点を基本としながら、その見解や支持層あるいは不支持層などの変遷は時代や情勢によって異なるが、重要なことは、そういった論議が絶えず続いているということである。これは9条が生きているということである。9条に対する否定的な考えや風潮があることは、決して9条が軽視されているからではない。逆に、9条が重要であるからこそ、それに対して常に真剣な問いが、たたかわされているのだ。もし9条の解釈や運用が全く不動のものであったとしたら、それはむしろ9条というものを固定化した絶対のものとして想定した、疑問や問いかけや変化などを認めない硬直した現象だとさえ言えるだろう。それはむしろ思考停止の状態とさえ言える。また逆に、もし本当に国民の多数が9条を否定するなら、とっくの昔に改憲がされていただろう。
改憲論、けっこうである。護憲論、けっこうである。さまざまな解釈論議、当然である。しかし、それでも結果として、現在まで9条は変わっていない。その実態がさまざまに変遷があったとしても、常に改憲論が持ち上がっていても、9条の条文そのものは、全く変わっていない。ここに9条の最大の意味があると思う。それに9条が、もはやその存在が日本の文化となったことの証明であると思う。
その文化とは何か?それら、そのこまかい論議や解釈あるいは現実社会の矛盾などを抱えながらも、「戦争は悪だ」「戦争だけは避けなければならない」「どんな理屈を言っても、平和がいちばん大切なのだ」…その理念だと思う。「何よりも平和が大切である」という、これだけは揺るがない信念。これが戦争放棄という9条が日本の国民社会に根付いた「文化」である。