正しさが終わった時代

「正しい」には、いくつかの意味がある。哲学的な「普遍の真理」といったような場合、結論をいえば解らないのだろうが、どちらかというと信仰的なものかもしれない。自然科学の真理は、実証されていけば経験的に証明されるものだろう。言語的な正しさというのは、「右の反対側は左だ」というような、価値も社会も無関係な確実なことは、正しさも判る。

実際に問われていくのは道徳的な正しさなのだろうが、それはある程度は常識的に判るとはしても、これだけ科学や社会・文化などの変化が著しいと、現実と概念が追いつかず、合致がしづらい。事実上、殆ど意味を為さなくなっていくと思う。

ふつうにいうところの「正しさ」は、殆ど判らなくなるだろう。昨日と今日の正しさは変わる。

そういう意味では「正しさ」はなくなりつつある。

事実上、正しさがそれほど問われないようになれば、結果的に自由度は飛躍的に拡大する。よほどのことでない限りは、自分の思うがままに生きれるようになる。

正しさがなくなることが、人にとって幸せになることなのだ。