停戦の重要性

「停戦」は、とても重要なことだ。いわゆる「戦争」というものにおいて、とりあえずまず「戦闘行為を中止する」という意味で、「停戦」は最重要なことだといっても言い過ぎでないと思われる。

もちろん停戦が必要で重要なことだといっても、どのような内容であっても「停戦さえすれば、それがどんな内容であってもいい」というわけではない。常識的に考えて、あまりにも極端にひどい内容のものであった場合には、さすがにそれに合意することはできない、ということもあるかもしれない。

たとえば仮に「片方の国の国民はすべて殺される」という停戦の条件であったとしたら、ふつうに考えてそれに同意はできないであろう。それでは事実上、停戦の意味が無い。

しかし前記のような例は、あえて極端な場合を挙げてみたのであり、通常は実際にはまず有り得ないことであろう。しかしでは、今度はたとえば「片方の側の国民はすべて奴隷にされる」という停戦の内容であったら、どうであろうか?

「奴隷になって生きるぐらいなら、死を選ぶ」「奴隷としての生存よりも、生命をかけてでも自由のために闘う」という人々も多いであろう。ーーそれらの価値観や感覚に対して、安易にどうこう言うつもりはない。さまざまな生き方があり、それに、それほど重要な選択に関して、他者が簡単にあれこれと言うことはできないと思う。

だが前記の2例のように、「国民のすべてに死を」とか、死ねとまでは言わずとも「奴隷になれ」といった、それにしてもあまりにも極端に過酷な内容の条件である場合は、ふつうに考えて受け容れがたいのは当然と思われる。

しかし、そこまで常識外れではないが、やはり簡単には受け容れがたいものである場合もいろいろあると思う。ーーそれには例えば賠償金など金銭的なもの、資源や貿易やさまざまな経済的な利害のこと、民族や宗教など生活環境や慣習や思想・文化などにも関わること、領土や領域など主権に関係すること、軍事力の内容や軍事同盟など軍事的なことや外交関連のことーー具体的なことになったとき、その条件の内容によって、容易に停戦できるというものではない、という現実があると思う。まして、紛争・戦争の当事国にとっては「他人ごと」ではない。ーーそれだからこそ、簡単に停戦というわけにはいかないというのが現実なのだ。

ではその上で、それでも敢えて「停戦」が大切だ、というのはどういう理由なのか?

それはやはり、さまざまな理由や感情や立場が当然にある上で…

それでも「とりあえずは、まず停戦によって「死」の危険性を回避する」ということが大切であろうと思うからだ。ーーすくなくとも、明らかな「殺戮と破壊」に直接的につながる戦闘行為は停止しようではないか、そういうことなのだ。

停戦、休戦、講和、仮講和、一時休戦、ーー等々。ここでは敢えて、そういった国際法上の厳密性は問わない。それが重要でないということではなくて、ここではとにかく「戦闘を中止しよう」「先のことは大事だが、まずいま目の前の戦闘行為をやめよう」ーーそれが重要だからだ。

不幸にして戦争になってしまったら、まず停戦を考え、停戦をめざす。ーーこのことを強く認識すべきだと思う。