脳ミソと戯れて

僕が脳ミソと戯れるようになってから、どれくらいの時間が経過したか…正確には判らない。たぶん数日間、とにかくまだ1週間とはたっていないだろう。
脳ミソと戯れる。なんと良い響きだ。ようは遊ぶということだが、戯れるとカッコをつけた言い方をする。…わざとそういうふうに言うのだ。
脳ミソと遊ぶ…脳をいたぶる…虚構の脳は虚偽の物体…偉大で愚かしい偶像態でしかない。
僕の接している脳は、黒っぽい、湿った乾燥しきらなかった鰹節か、巨大に成りすぎた黒い金魚のようだ。しかし「黒い金魚」とは面白い表現だ。
とにかく僕は、まあナマズをもっとグロテスクにしたような、どす黒いような、目も口も有るのか無いのか、それさえも、わかったような、わからないようなー要するに、いきものすれすれか、あるいは逆に死者もしくは死体または死骸すれすれ、な感じなのだ。
生きているのか死んでいるのか、たぶん生きているのだろうが…その脳ミソは、ーーいや、すくなくとも脳ミソと呼ばれる物体らしきものは、体長1メートル余りで、かたちはナマズかアンコウかムツゴロウか山椒魚か、もしくは鰓の無い鱏「えい」のようなものか…
とにかくグロテスクなのだ。
これが脳ミソか、
これが脳ミソなのだ。
そこに僕は、脳からの解放をみた。脳からの自由を確認した。ジギタリス。脳ミソを僕のからだから切り離して、べつの存在として感じられて、そう
それは初めて僕は生きた、と思った。脳ミソを持っている限り、脳ミソを自分のからだに所有するかぎり、脳ミソは解放されない。同時にそれは、心も体も、物体も観念も、あらゆる人生からも世界からも、解放されないし、また「解放しない」…
僕はいま自分の脳髄と…いや厳密には脳髄か、いや脳髄だが自分のかどうか自信があるわけではない。しかしいいのだ。とにかくナマズなり山椒魚なりエラの無い「えい」なり、妙にグロテスク極まりない、どす黒い塊のような生きもの、死にかかった…
これが脳だ。
これが脳髄だ。
これが脳ミソだ。
これが中枢神経といわれる物体なのだ。そこから人は、束縛を受け、束縛からの解放を求め、それを「自由」と呼ぶ…自由、なんと有り難いお言葉か!自由だと、ナマズの脳髄は自由なる観念を生み、人間はまたそんな観念のために「闘う!」の…だ!ざまあみろ。